神様の栄光週間を過ごす。

毎年、1/1~1/15は神様に感謝と愛で栄光を帰す≪栄光週間≫です。

一年の始まりを神様に愛で栄光を帰する行事です。
個人、家庭、部署、教会単にで様々企画して栄光を捧げます。

さて、栄光とは?
「神様を愛する心・考えで行なうすべてのこと」だそうです。

愛する人が自分に愛で行なってくれるすべてが嬉しいように、
神様が人間が神様を愛して、神様だけを考えて行なうすべてが賛美であり栄光として神様は受け取られる
とチョンミョンソク先生が教えてくれました。

なので、
いろんな形で栄光を帰しています。

歌・ダンス・だけではなく、
書道・駅伝・寸劇・俳句・絵を描くetc…
さまざまな愛の心・形が毎日天に捧げられています。

ひたすら神様だけを考えて、捧げられるように
人を前にしないで、捧げるようにと仰る時もありました。
わたしは人前で歌ったり、歌ったりするのがものすごく嫌だったので、
本当に聖三位だけを意識できるようにしてくださった先生の提案がかなり嬉しかったです。

わたしは、自分の存在をなかなか肯定的に見れないので
こんな人が歌っても、踊っても、神様は喜ぶだろうか?と疑う心でいました。
神様が嬉しいならば、私にわかるようにして下さい、私も嬉しく楽しくなるようにして下さいと
祈りながらささげました。
誰もいない川原で歌った時、雲から太陽が出てきて私を温かく照らして下さったり、
疲れていたけれど、存在させてくださった神様にひたすら感謝の心で捧げて踊った時、
私が生きていることが本当に奇跡だなと感じられて嬉しかったです。

10数年前、親に私を殺してほしいと言っていた親不孝者がここまで変わったと
奇跡を感じる瞬間でした。

自分の目でみると、自分なんてつまらない存在なのですが
神様は本当に大切に見てくださっている。

それが栄光(神様だけを考えて心を体で行なってあらせる時)を捧げる瞬間に感じられます。

技術ではなくて、真実な心。
形式ではなくて、混じりけのない心。
それだけでいいんだといつも、驚きます。

真心を137億年間ずっと待っていらっしゃった神様の心をもっと、喜ばせて差し上げたいと
いっそう思う栄光週間です。

さて、明日はなにをしようかな。

度肝抜かれた十字架に対する感覚。

摂理は十字架がないからカルトだ、異端だ、と判断をしているあるサイトがあるということを
ふと眼の端にはいるのごとく知った。

実際、どうなのかというと、司会者台に十字架が刻まれているものを使用している摂理の教会もある。

しかし、ばばーんと、大きな十字架を壇上の真ん中にあるか?とういうと、そういうのはあまり見たことがない。。。
(私は日本摂理の教会全部を回ったわけではないのでそういうところもあるかもしれないけれど、あまり聞いたことはない)

どうやら、壇上のど真ん中にどどーんと大きな十字架がないからカルトじゃね?って思って、いってらっしゃるみたいだがが・・・。

さておき、

イエス様の十字架の死を本気で悲しんだチョンミョンソク先生の話を思い出す。

パッションという映画を見たことがある人は想像が少しできるだろうが、
恐ろしい拷問もその肉体はどれだけの苦痛を受けられたか・・・・。
もし、自分の家族か恋人がそのような目にあったらどうだろうか?
胸が引き裂かれるような苦しみを感じるのではないだろうか。

チョン・ミョンソク先生は青年時代にイエス様の死の意味を悟って、あまりにも心が痛くて、悲しくて
3日間泣きながらイエス様のお葬式をしたことがあるそうだ。
わたしは、イエス様をそのように自分の愛する人として迎えて接している先生に衝撃を受けた。

メシヤを待っていたユダヤ人たちが迎えることが出来なかったことをどれほど無念に悲しく思われたのか、
その心情を考えて、悲しむ・・・・そこまでの愛。

世界広しと言えど、なかなかいないのではないだろうか。。。。
カルトかどうか、怪しい団体かどうかを
十字架の大きさ等で判断しなくてもいいんじゃないかな~・・・と一個人の見解でワタクシは思います。