御言葉、読み方問題。>摂理を極悪カルト集団として報道した番組の件

ちょっとした小話というか。。。
摂理のメンバーにとっては当たり前すぎて、何言ってんのと思われるかもしれない話題です。。。。

摂理について面白おかしく極悪なカルト集団として報道された当時
御言葉を「おことば」って言っているワイドショー番組があって(^_^;)

それを最近ふと思いだし、思ったのです。

もしかして、その認識で私たち摂理人のブログのそこかしこで目にする「御言葉」という単語を
おことば」として読まれていたら・・・・どうしよう。。。

校長先生のお言葉みたいに、思われていたらどうしよう・・・。

 

 

御言葉は「みことば」と読みまして、
尊敬語の「お言葉」ではなく(^_^;)
神様の言葉だから、特別!という意味合いで「みことば」なんです。
これは、キリスト教ではふつうです。聖書に書いてあるので。。。

え~でも人が語っているんでしょ?
そうです。
神様は目に見えないので、見える人を通して、御言葉で現れます。

 

「聖書はすべての神の霊感を受けて書かれたものであって、
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」テモテ第二の手紙3章16節

聖書は2012年12月の時点で2551の言語に翻訳。(日本聖書協会による)
命懸けで伝えつづけられて約6千年の歴史を持つ聖書です。

その聖書について、わかり易く伝えてくださる摂理の主日礼拝の御言葉。
聴いてみた時に、「みことば」だ。とおもうのかどうかは、当人次第ですが、
読み方は「みことば」です。

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社会性を学びました。>in摂理

もともとインドアなタイプなので一日中家から出ないで部屋で本を読んでいるような人でした。
(もしくは、図書館、本屋とかにいる。)

人好きな人が摂理に多いかどうかわかりませんが、私はまったくもって人が苦手(自分含めて人間不信でした)。
コミュニケーション難しいしめんどくさいから、避けて通っていました。

摂理にきてから、自分と真逆の人とかかわる事や一緒に暮らすような機会があったり、
自分が今までしたことが無かった、スポーツ(サッカーをするとか)や
興味があったけれども、自分のカラー的に似合わないのではないかと自ら線を引いていたヒップホップとか
挑戦させてもらって、自分の限界というか線引きをなにげにぶっこわす事ができました。
上手くできないから、いろいろ大変なこと(葛藤・摩擦)ありましたけれど・・・・。

 

 

本を読むだけでは得られないものがあって面白かった。
新しい世界を見るって表現がしっくり。

 

摂理は宗教団体かもしれませんが、
人を閉じ込めたり
意志を剥奪したり、押さえつけてコントロールする場所ではないです。

(いわゆるカルト的なことしていない)

どちらかというと、学校っぽい(学校みたいに要求や干渉そこまでないですけれどね)

自分のこと嫌いだったけれど
地球に一人しかいないっていわれても、だから?何?って思っていたけれど。

自分ってものの可能性が見えるようになった時。
また、どうやっても変えられなかった自分のカッターイ考えが神様の全知全能さで状況環境通して
よりよく崩されて再創造される時。
人生の問題で解けなかった憎しみも
解けるようになったりで、こりゃ人がすることを越えている。。。。と、参りましたと天を見上げるような心の時。

 
自分という個が
宇宙・地球・人間全部を作った神様を感じるしかなく、貴いんだな~自分。
って、じわじわ思うようになりました。

 

人生一生自分をつくること。
それを具体的に教えてくれて、挑戦することも助けてくれる

そんな場所です摂理は。