辛いとかんじるときに考えた事・・・。

生きていると当たり前ですけれど、
嬉しい時も悲しい時もありますね。
過ぎ去るとすべて一瞬ですが、辛いと感じるその時はなぜか、長く感じます。

 

どうしてそうなのか?
考えてみた時に、

辛いことを通して、生じる得るモノもあるなと

そう改めて学ばせてもらう御言葉がありました。。。

 

 

人は皆、ご飯を食べ、

人は皆、寝てこそ生きることができるように、

人生を生きる中で差し迫る困難と患難は

人生の目的地に行くためには、誰にでも来る。

幼い人、年老いた人、関係なく、自分に該当するものが来る。

打ち勝ち、勝利しながら、自分の人生を生きていくのだ。

そのように生きてこそ、次元が上がる。

喜びの根本になる宝を

得た人と得られなかった人の喜びが違うし、

得た人と得られなかった人の自信感が違うし、

得た人と得られなかった人の希望が違う。

はっきり、明らかに違う。

キリスト教福音宣教会-摂理の御言葉

 

 

人生という道の過程の中で
朝があり、

夜があり、

また山登りのような時もあれば、

広くみ渡すような景色を見るような瞬間もある

すべてが”根本の宝を得る”ために必要な過程、
ただ流れていく時間でもなく、
意味のない労苦でもなく、
全ての瞬間に意味があり、
全てが甲斐になる。

たしかなその価値を自分の人生を通して得る。

そう考えると、何でもない自分だとしても、誇らしく感じられ
さて、もうひと踏ん張りしようか
という気持が背中を押すように湧いてきました。

礼拝で出会う。

みんなと同じことをしていないとダメなんじゃないか。
そういうのも信仰においては、まったく不要なのですが、日本の教育による影響なのか、

「集団行動をしないと、信仰悪いって思われちゃうんじゃないか。」
「みんながアーメンっていうところに合わせてアーメンって言わないといけないんじゃないか。」
というまったくもって、不要な気遣いをしていることを見聞きしたことがあります。

いらないっすよ。マジで。

神様と自分、一対一。

主日の御言葉で、泣く人もいれば、笑う人もいる。
一人ひとり個性と経緯は十人十色。

信仰悪いって、悪いからなにか?
もっともがいて、これも天とのイキサツにします!!!
と、主の服の裾を掴んで引き留めるのもよし、

よくわかんないから、よくわかるように教えて下さいとありのままを天に伝えてもよし、

気さくな天の御言葉に心を委ねてみるのもよし。、

今、天が何を自分におっしゃっているのか、それを100%存分に集中できる礼拝。
そこでどんな心を捧げて、どんな心を受け取るのか。
どんな考えで捧げて、どんな考えを受け取るのか。

それは、自分にしかわからない秘密みたいな物。

同じ御言葉を聴いて、核心と方向は一つだとしても、それぞれが感じる所や思う事は
本当に個性通り。

自分と神様、神様と自分。

やり取りがある。

それが、愛なんだな。と

皆の中で神様に会うんじゃなく、
自分がただ天の前に、神様の心の中に入っていくような礼拝を捧げる時に感じます。

ま、今ではこんなこと言っちゃってる私も、
初期の頃、こんな至らない私は礼拝に行っても神様喜ばないんじゃないでしょうか・・・と思っていたことがありました笑。

そんな気持ちを、天にありのままに伝えた時、神様はおおらかでした。

信仰って、うまく出来る、うまくできないとかは無くて、ただ、神様にどうしたら近くできるのか
いつも自分を新しく作っていくことなのか~と、チョンミョンソク先生の姿から信仰の楽しさを学びました。

上手くできないと怒られる。価値無いように言われる経験が摂理来る前に私にはあったのですが、
神様は上手くできるかできないかよりは、神様と共にすること・天との経緯を願われるのだと教えてもらったのでした。
ちゃんと理解して、その考えで行なうことができるまでには数年かかった私ですが、

礼拝で新しい力をもらえるんだ~という素晴らしい味を知ることが出来たので、やっぱり経緯って最高です。

そんなわけで来週はもっと良い礼拝を捧げたいと思って準備します。