誰が何を言っても何故、信じられるのか。

もともと、私は自分含めて人間不信となって、生きる希望も力もなくて、死ぬのが得策だと思えるような有様だった。
それは、家族という最小単位の社会での体験をもとにしているから致し方無いのだが、

感謝すべきこともある。というか、まず感謝しかないのだ。と、教えてもらったのがチョンミョンソク牧師だったのだ。
かの牧師は、「お前には期待はしていない」と父上から言われたり、貧しさから小学校までしか通えなかったりと、様々言葉にならないような思いをされている。

人と比べることほどナンセンスなことはないが、それでもチョンミョンソク牧師がご両親を大切にされている姿や感謝している姿、そして絶対に大切にしなさい。と、聖書に書かれていることを大切に実践しながら教えられてきたその折々の様子を思い返すほど、どうしたらそのように出来るんだろうか。と、思うしかない。

帰りのバス代を物乞いをする親子に渡して数十キロ歩いて夜遅く帰宅したら、近所の人に頭がおかしくなったんじゃないかあんたのところの息子と言われた際にどうしてそのようにしたのか?と問われて「イエス様ならばそうされるでしょう。与えなさいと。」と言って、「お前は度を越して神様を信じている。そのように信じては大変だ。」と言われることもあったチョンミョンソク牧師。呆れられるというか、そこまで徹底して信じることが出来るのはすごい。と、ご両親も思ったのだろうと思う。

こういうエピソードが、昔から今も変わらないチョンミョンソク牧師。

常に、神様をイエス様を実体的に隣にいらっしゃるように生活をしている姿を見ると、人を恨むこともできるのにそうしない生き方を選ぶのは、自分も大変なのに、もっと大変な人のことを大切にすることが出来る愛があるのは、確かにイエス様がおっしゃってた「天国はあなた方のただなかにある。」心の中から、天国をつくること。それを思わずにいられない。

諦めること、背を向けること。しか出来ない、私なのだが。
そうじゃないんだ。と、実践されてきたその生きた信仰に平手打ちされるのだ。
でもどうしたらそのようにできるのか?
まだ、そんなレベルのワタシは求めよそうすれば与えられる。という聖句と、まず神の国とその義を求めなさいという。
聖句をもとに、天に求めてみる。そうすると、またチョンミョンソク牧師をとおして神様が必要なことをぽつりと教えてくれる。
その実践をとおして、心にあたたかな光を与えてくれる。
その光が私の考えと日常に忙殺されてしまうことのせめぎ合いが長く、もう諦めたほうが早いんじゃない?って思うこと
多々ありなのだが、それでも生きた奇跡を見せられてしまうと、いやいやまだもう少し。と、粘って今に至る。
ある人に執念深いと言われたが、まぁそうかもしれない。私において信じるっていうのは。
死ぬか生きるかを天にゆだねるところから始まっているから。

陥れる祖母のおかげだと思えた日。

ご近所や親戚に、接するときと家族(とくに嫁である母へ)に対するときの言動が全く異なるというか、母にキツイ当たりを日常的にしている本人なのに、むしろひどい仕打ちを嫁から受けていると涙ながらに語る姿や、祖母の意にかなわないことがあるとニコニコしていたとおもったら相手がいなくなったとこで人相激変させながら「畜生めが」と罵る祖母の二枚舌の姿を子どもの頃から目の当たりにしたことは、ヒトとは恐ろしい存在であるゆえに、安らぎなき不確かな世界それが私の見るこの世だった。

私など生まれてこなければ良かったと思うようになった主要因かもしれないが、むしろ今は良い経験だったと感謝するようになった。

それは、チョンミョンソク総会長牧師を訴える方々の存在をよく理解できるから。

無駄な経験は何一つないとおもえるようになったこと有り難く、チョンミョンソク牧師が無実であると改めてなぜ思うのか改めて文字にするのも必要なのかもしれないと思う今日この頃。