なにげなく大きな奇跡。

やわらかく輝く月を見て

一体、どこに行けばいいんですか?と問いながら暗い夜道を歩いて帰った日を思い出す。

 

 

変わりたいけれど、変われない

自分の限界ばかりを知って立ちすくむ中で

 

「私のもとへ来なさい」

 

 

心に浮かんできたコトバは

中学、高校のときに読んだ新約聖書のイエス様の一言だった。

 

どこに行けばいいのか教えてください。

聖書を何千年もかけて後世に残したのは意味があるならば

私を照らす月のように神様が私を見ているならば

どうか

教えてください。

そう、暗い道をあてもなく歩いていた。
その日が今はだいぶ遠くなり、太陽の温かさに包まれながら新しくなるための挑戦をする今がある。

 

神様、ちいさな声を聴きのがすことなく導いてくださり

心から感謝します。

 

 

 

名もなき広告塔。

イメージ印象というものは大きい。とふと思った。

父方の伯母は、クリスチャンだった。
伯母だけがイエス様を神様を信じてお祈りをしていた。
私に神様が私を愛していると初めて教えてくれた人だった。

伯母は、いつも笑顔で気が利く人で
ユーモアもあって、面白く話しながらも思慮深い対話をする人だった。
脳梗塞を患った後に、子宮がんが見つかり、転移もあり、最期は闘病生活が長かったが
痛みがあるはずなのに、周りの人に痛いとか、苦しいとか一言も言わなかった。
お見舞いに行く私たちにむしろ、笑顔で迎えてくれて、
病院の看護師の方にもいつも感謝をしていた。

伯母の人格と精神はイエス様から学んだことだと、行ないを通して現れているのを見た。

私の両親が信仰を持つことを止めないのは、伯母の存在が本当に大きいと思う。

そして、伯母の生きた姿から言葉で伝える事よりも行ないが人に与える力が大きいと教えてもらった。

どのように生きることが、神様を愛することなのか、
神様の願う愛とはどういう生き方をすることなのか?
わたしはチョンミョンソク先生の「言葉よりも行ない」実践哲学から
教えてもらった。

私は先生と直接会った事がない世代の人だ。
だから、なんで先生のことを会っていないのに尊敬できるのか?と言われると
「真心を感じられるから。」
嘘、偽り、建前がない=真心
先生の神様に向かう愛と、神様との愛で私たちに接してくれるその愛にそれを感じたから、私は目が離せなくて今に至る。

心と考えだけで行なったつもりになる自分から、本当に抜け出そうと
先生と伯母を考えて気が引き締まる。

名もなき広告塔になれるように、今日も自分を直して、作って、磨きたい。