人生の作り方。

進路を考える時、
好きなことをするのがいい。好きなことを仕事にできたらいい。
みたいな考え方があるけれど、

専門的なことを勉強している友達が
「好きなことを営利目的にしたら辛くなるから、わたしはそうは思わない。
むしろ好きなことは自分の自由にした方がいい。」と言っていた。

そもそも、自分の好きなこと、向いていることってなんだろう。。。。
と特に専門性がない私は思った。
苦なくできる事が好きなこと・向いていることなのかな?と思った。

でも、好きなことってほどのものが特になかったので、
苦手なことを回避するような仕事につく事になった。

人とやり取りしないで済む黙々と精密検査をする工場での仕事。
話す事は確かにないが、淡々とした仕事で眠くならないようにすることが結構大変だった。
そして、何よりこれを私はあと数十年するのかと思ったら、気が遠くなった。。。
自分をより良く作ることできる仕事をしたい・・・・。と思ったので、1年で退社した。
模索する、期間に「人生についての答え」も知りたかったわたしは、短大の時の友達を通して、摂理のメンバーを紹介されるようになって摂理でバイブルスタディ学んだり、礼拝に参加をし始めた。

摂理に来てからは
神様に祈って、訊いて、求めて、
御言葉で確認して、御言葉を行なってみて自分の考え直したり、作ったりする。
自分で自分の定めた限界線が、自然にぶっ壊されていった。

摂理に来てから、
東京で一人暮らしするために、私が一番むいていないと思っていた事務の仕事をしたり、
山梨で生活するようになってからは、
東京にある教会まで通えるように、
絶対無理だと思っていた接客業や営業までするようになったり、

生きるために、自分の考えをひっくり返して仕事をするようなことに自然となった。

もともと自分が苦手。無理っす。と思っている分野・業務だったけれど、
仕事場の方々通して学ばせてもらえる人柄がいい人がいたり、
業務内容も自分ができることをしつつ、自分が苦手なことにもチャレンジすることが出来る
そういう所で働かせてくださいと祈って求めたので、神様が下さったと本当に思う。

はたから見たら、働いているという、ただ当たり前なことだが、
昔の私からすると、ありえない仕事をしている(現在、コールセンターで人と毎日話す仕事)のは、天の導き。

上手く出来ない自分にいらだったり、辛くなったり、しても
御言葉で自分の考えを直したり、作る事ができたから今想像もしていなかった業務しているのだなと。。

御言葉で自分の考えを直したりすることが、人生作る事だったんだ~と
「御言葉にある答え」を少しでも自分のものにしたいと、奮闘した様々な事を振り返ることが出来るくらいの年数になった時、

自分になかったものが作られている。
という実感がじわじわ湧いて、
神様の働きかけ方がわかって、
誰になんて言われても、
摂理の御言葉は神様が下さった私に向けてのメッセージだと言える今日になった。

仕事が上手くできる事が自分の価値のような捉え方が前はあったが、
うまくできない事が出来るようになるまでの過程が見えない神様と二人三脚的な歩みなので、私だけの面白さがある。

チョンミョンソク先生は「人生、一生つくることだ」とおっしゃっていた。
どう作ろうか神様に訊きながら、次の展望を見たい。

山梨から通う理由。

私の住まいは海なし県、山梨。
四方をぐるっと山に囲まれた盆地。
ここには残念ながらキリスト教福音宣教会の教会はまだない。

私が伝道されたのは(ここでいう伝道はキリスト教宣教会(摂理)でバイブルスタディ学んで、自分で礼拝に出たいと思うようになったことを指している)山梨だった。

え?どうやってか?
その話は御心(←神様の意向に沿うこと)ならばまたの機会に触れようと思う

経緯をはしょって話すと
バイブルスタディを山梨から通って聴いた。
東京に住むなんて到底考えられない人だったが、
神様がしるしをくださったりと聖霊様がインスピレーションくださったり(自分の考えを越える考えをもらって「そうしよう!」と思った)
そういうわけで東京で一人暮らしするようになった。
また数年後、導きがあってメンバーと一緒に住むようになり、いろんなこと学ぶ時をいただいた。
そして数年後、どうにもこうにもどうすることも出来ないことが起こって、山梨へ。

気が付くと、東京で過ごした日々と山梨で生活をするようになった期間が同じくらいになった。

山梨から東京まで通勤・通学をする人や友達が見たことがあるので、それに比べたら週一通うことはなんてことはない。
ただ、仕事や勉強ではないということで、特殊にみられる(家族を始め神様を信じる事についてあまり知らない大体数の日本人ではそうだと思う)

なぜ、通うのか?通えるのか?

そう思う人が多いみたいなので、それについて今日は書こうと思う。

一言でいうと、生きるため。

働かないと生活できないように。
ご飯食べないと生きられないように。
教会で、礼拝捧げる(目に見えない神様と御言葉を通してお会いすること)事が
そのように必要

しかし、まさかこれほどまでに通うことになるとは
予想もしてなかった。
東京の都会的なところが苦手だったが、かといって山梨も好きじゃなかった。(好き嫌いというよりは、苦しかった。)

「人は環境で生きるのではなく、考えで生きるのだ」と摂理で学んだことを行なったとき。
本当に、そうだなと心からその通りだと思う。

閉塞した空気とも感じられる田舎独特の雰囲気の中でも
自分の考えと行ないを新しくする生活ができるので、
天の知恵・神様のみことば
のすごさを実感するのだ。

「人はパンだけで生きるのではない」

イエス様がそうおっしゃった御言葉。今はどういう意味なのかが分かる。

「金なき者も来たれ、命の水を与えよう」

持てる物だけもって、ただ慕って通うしかない。
糧のように、水のように、必要な御言葉。

「価をつけられない」から、通うしかない。

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