愛されることを願わない人はいないですよね。
しかし、愛されるより愛したい。っていう小説がかなり昔に流行っていたことがありました。(知っている方、バブル前を知っている方だと思います)
当時の私は、「そもそも愛ってなんだ?」
「好きより激しい感じはするけれども、それはいつ解るんだろう。」
そんなこと漠然と考えながら中学生になり、思いもよらない聖書の中で「愛」に出会うようになりました。
「神は愛である」
「私を見た者は私を遣わした方を見たことと同じなのだ」
つまり、イエス様を見た(認めた)人はイエス様を遣わした神様を見ること(会ったこと)と同じだよ。
マジで?
っていうか、イエス・キリスト=愛ってこと?
愛ってどういうこと?
そんな問いが浮き沈みしながら、学校で捧げる礼拝の時間に新約聖書を読み進めていったのですが
ある日、マルタとマリアという姉妹が出てきました。
おっと△関係か?と言うわけではなく、
マルタはイエス様をもてなすことに忙しく働きまわり、
マリアはイエス様から御言葉(みことば)を聴くことを喜んで聞き入っていました。
マルタが見かねて「マリアにも働くように何か言ってください」とイエス様に口添えを頼むんです。
あなたはマルタの気持ちわかるなぁって思いますか?
私は、激しくマルタの気持ちが分かりました。
その頃、両親が共働きだったので駅から徒歩40分かけて帰ってきて、空腹の中で夕飯を作っていたんです。
妹は好きなアニメ番組を温かい部屋で、私は寒い台所で。
なんで長女だからってこうなるんだろう。。。
マルタはきっとこう思ったに違いない
「わたし頑張ってますよ。褒めて下さいよ。そして、妹の不甲斐なさを叱ってくださいよ。」って。
だから、
イエス様が
「マリアはより善い方を選んだのだから、それを奪ってはならないよ」と返答したその一言にショックを受けました。
マルタ可哀そう!!!
何言ってんの?頑張っているマルタのことも認めてあげなよ!
そう思いました。
あまりにも激しくショックを受けて、そのシーンとその聖句を自然と考えるようになりました。
だって、これのどこに「愛」があるのか分からなさすぎたから。
そして、10年くらい経った時に少しだけ見えてきたことがありました。
マルタの「私って頑張っていますよね?頑張っているの認めてください。」っていう想い・考えを
イエス様は知っていたんだろうなと。
そして、それを無下に無視したわけではないんだなと。
ただ、イエス様が伝えていた御言葉(みことば)にマルタが求めている愛があるから、その愛に満たされて欲しいと思っていたんだな。
マルタよ、マルタよ
あなたを愛している。
だから、私の話を聞いてほしい。
そうイエス様は思っていたんだなと、神様の愛を知るようになってから気づきました。。。
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