幼いころ、両親がしょっちゅう喧嘩をすることを目にした。
子供心にも大したことが無いことでいさかいが起きるのと、
その日の気分でちやほやもしてくれつつ、私などいなくなればいいと思ってしまわせる祖母を通して、愛は気のせいではないかそんな風に思った。

どうしてこんな嫌な思いをするために生まれてくるのだろうか。。。

もちろん、大切にしてもらったり育ててもらった恩はあるのだけれど、

愛ってなんだ?
と考えても分からず、
めんどくさいからもういいと思うようになる。

そんな折に、英和中学入学で聖書に出会って、日本がまだ縄文時代くらいのときに
イエス様が行なったことや話した内容が、
時を経ても国が違っても、なぜか自分に届くものがあるその不思議を知った。
そして、見えない神様を信じて証する信仰者たちの不思議。

今年、山梨英和は創立130周年だが、草創期のカナダからの女性宣教師はへんぴな片田舎と言うよりは大の田舎、標準語よりは甲州弁な山梨へまだトンネルも開通していない笹子峠を自力で山深い山々を歩いて来たらしい。
なんだそれ。
どうして、そこまでできるんだ。。。

理解できないその行動力がどこから来るのか考えると

人生を生きる希望や力が湧かないような時に、

ある聖句がよぎるようになった。。。

「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くしてあなたの神を愛しなさい」

ここに書かれてることが事実ならば、教えてくれる人に出会わせてほしい。
もし心と思いと命を尽くして神を愛する者がいるならば、
その人から教えてもらえたら、神を信じ愛することができるはず。
だから、そういう人に出会わせてほしい。

そう、くどくど繰り替えし思ったり、疑心がありつつもイエス様の御名で求めてみたり、実際にいくつか県内の教会を回ってみたりもした。

が、納得できる存在に会えず、願ったことさえ忘れてしまう忘却の動物。

そんなわけで、実現されてる!と

衝撃をもって気づいたのはチョンミョンソク牧師が極的な困難患難、ひどい状況の中に見舞われたとき。

そういう時でも神様の御働きと神様を信じて行ない続ける変わらない姿を目撃してからだった。

自分が大変なのに、どうしてか相手のことを大切にする。
そんなパワーどっから来るのか?っていうと
つまり、神が愛だと行う姿で説く。

正直、人間的に考えたら難しい。
だから、人知を超えるってこういうことだなと納得。

愛ってやつは、
どうやら欲が無いらしい。

命懸けで学んだことを、惜しげもなくただで教えてくれる。

そんなあり得ない存在から教えてもらったことで、なんか癒された。心と考えがだいぶ楽になった。

自分も他人も責めずによりよく生きるために必要な愛を知るようになったからだと思う。
(そうだとしても、不甲斐ない自分に落胆をするのはマァよくある話だけれど)

昔よりずっと人生が重苦しくない。
たしかな神の愛を知るようになったからだ。

けれども、その愛を行なえているだろうか?
その問いが自分の前に来ると、
まだまだだなあぁと正直思う。。。

愛を知ったからには、行なわないとね!と言われると
わ~自分できていないよー(^_^;)(>_<)

と、申し訳なさ100%で居たたまれないのだが
生活の中でもろもろ起こる出来事や
家族とのやり取りで痛みが
生じたとしても、
憎しみとか争いという膿が出さずに、

どうしたら平和になるのか?どうしたら愛せるのか?とか、そもそも自分のなかにある悪を悔い改める
その方向で祈ると真理と愛が神から与えられるので、人生、生きるのが楽しい。

痛みがあるのも、成長痛的なかんじ。(だと思いながら進むわけである)

ふり返ってみたら、生きるのが大変難しくて希望も見いだせなくて、つまんなく思っていたその頃と違うことにはっきり気づく。

どうしてそうなったのか?ということを語れる経緯があるってことは
お!自分まだまだだけれども、
今後の人生も大いに楽しみだ!と思ったのだった。

神様とのやり取り・経緯が愛だ。
そう教えてももらったのを思い出して、申し訳なさが薄まり、嬉しさが湧いた。

最後に、ベタだけれども自戒とともに展望の意も込めて、愛についての聖句で締めくくらせてもらう。

愛は寛容であり、愛は情け深い。
また、妬むことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない。
無作法をしない。
自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

コリント人への第一の手紙 13章4~7節

自分の名前を入れてみてねと言われたことがあったが、
まだしっくりこないので、しっくりする方の姿をみながら研鑽をつもうと思う。

どーしようもなかった私を捨てなかった神様に感謝しながら
蛇足で付け足したいのは
主の御名で祈り求めるならばすべて聞かれると書いてある聖書のとおりでした!と証したい。