摂理に勧誘されるんじゃないかと心配されている方々へ。

わたしは摂理で御言葉学んで「これはいい!聴くべき!!」と思ったので
友達や、家族に「聴いてみたらいいよ」と話しました。

反応は様々でした。
「わたしは聴かなくてもいい。」と言う友達や、家族もいました。
しかし、「聴いてみたい」という人もいたし、「よくわからないけれど、神様信じるのはいいことだと思う」という、中立的な反応もありました。

そもそも、勧誘ってどういう意味でどういう時に使われる言葉か?というと。。。

【勧誘】
デジタル大辞泉
[名](スル)あることをするように勧めて誘うこと。「保険の勧誘」「劇団に勧誘される」
大辞林 第三版
( 名 ) スル すすめ誘うこと。 「保険に加入するよう-する」 「貯金の-」 「 -員」

勧誘だと、勧誘する側に利益があるじゃないですか?
摂理の御言葉・バイブルスタディーはいいよと伝えること自体は、目に見える利益は特にないので、
勧誘というよりはクチコミに近いです。
もしくは、私の感覚からすると、提案です。
または、「これ良かったよ!」と伝えて、良いものをシェアしたい。そんな感じです。

以前、変わりたいけれども聖書を学ぶには抵抗がある。。。
「自分を変えたい、変わりたい気持ちはあるけれど、宗教は気が引けてしまう。」と言っていた子の話ですが、
なぜそう思うのか訊いてみました。

その子のお姉さんが仏教系の新興宗教で高額な数珠を買わせられて、集会にも強制的に連れて行かれるような事件があり、
絶対に宗教はダメと言うご両親からのお話しがあったそうです。

そういうイメージで宗教を見たらそりゃ嫌だろうな、聖書学んでよかったという話を聞いても、良いとは思えないなと思いました。

それで、その子に訊いて見ました。
「Kちゃん。私、お金を要求したことがある?」
「・・・・奉仕してもらっています笑」(私が好きで作った夕飯をただ一緒に食べているだけだったんですが、(^_^;))
「私が話すことって、理解出来ない変な話だったり、恐い?」
「変だったら、一緒にご飯食べたりしないですよ。私の話を聴いてくれて一緒に考えてくれるから、有り難いです。」
恐く思われていなくてよかった。と安堵しながら、
摂理では強引に教えることはないということ、
自分で聴いたことを、考えて、判断できることを伝えて、
私がどのくらい変わったのか一目瞭然な写真を見せて、上げました。(その話はこちらの記事にあるのでお時間等よろしかったらお読みください)

摂理の勧誘方法・手口を知りたい方には、拍子抜けするかもしれないですが
こういう感じです。

ただ、事実を伝える。
良いものは「いいよ!おすすめ^^」みたいな感じで、
大切な人に大切なことを教えて上げたい。
一人で良い思いをしておくのはちょっと気が引ける。。。から、伝えたいな。
そんなかんじです。

表現や説明が足りなくて、相手にとって、それがよく伝わらなくて『勧誘』として目に映ることもあるのかもしれません。

私たちの活動>スポーツ・文化芸術
で企画・workshop等を公開して、そこで交流しながら、
考え方や生き方がいい感じですね。輝いてますが、なんで何ですか?
と自ら聴いてくる人もいるので、あ~それは、聖書を学んで変わったんだよ~と理由を教えて、聖書を学ぶことの良さを伝えることもあります。

もしくは、何かをきっかけにご縁が出来、お茶とか、ご飯をともにしながら、
色々話したりする中で、「自分変わりたいんですよね」とか瞬間、そんなお話が出てきたら、
そうなんだ~聖書学ぶといいよ!と勧めたりとかもあると思います。
いずれにしても、求めていない人に押し売り的なことはしていないです。
もし、摂理のメンバーから強引な勧めや、こちらの説明不足で不快な思いをされた方がいたら本当に申し訳ないです。。。

スポーツで勧誘しているんじゃないの?という懸念持たれている方へ

先日、摂理内の他教会のメンバーに、どのような経緯で摂理に来たのか教えてもらったのですが
高校時代からの友達に摂理のスポーツに誘われて参加したそうです。

ちょうど体を動かしたいと思っていたそうで、2つ返事で大学の友達と一緒に参加するようになったそうです。
大学4年生ぐらいの時で、大学のサークルも一生懸命にして、就職活動もして
一通り大学生活を堪能してちょっとひと段落した時期だったそうです。

スポーツに来て何が良かったんですか?と訊いたところ
摂理のスポーツは一人ひとりがいい意味で真剣で、より向上心があって自分が今まで過ごしていたサークルの仲間たちも好きだったけれど、
ここの人たちは何で光っているんだろうかと、魅かれたそうです。
精神的に善良な人達が多いと感じて、自分もより善良に生きていきたいと思っていたから刺激を受けたと言っていました。
でも、一緒に誘って参加していた友達は「なんか宗教くさい。怪しい。」と言って、来なくなったそうです。

この話を聞いて、「何を見て、どう判断するか」なのだな~と思いました。

「お酒飲んで、下ネタ言う。」のがふつーのスポーツサークルなのに、それがない。。。これって宗教の集まりじゃない?」
か、
「プレーをミスしたら、みんなが一人ひとりが考えて、次はどうしたらいいかを支え合いながら挑戦する姿。これっていいな。
こういう風に平和にスポーツすることが出来るんだ。こういう考えってどうやって持てるんだろう。」
と考えるのか。

外だけを見て、判断をするのか、
中身を見て判断をするのか、
そして、判断は個人の自由だなと改めて思いました。

もちろん、摂理人にはいろんな人います。
酒・たばこ等の嗜好品が大好きだったけれども、
摂理の人達って、あんまり否定的な考えがない。なんで?
皆どうして、温かいの?
人生について深く話せる人達っていいな。と感じて、

メンバーと対話しながら、聖書学んで、神様を知って、自分の人生の価値を知って変化した話を聴きながら
酒・たばこよりも、もっといいものがあるんだ。と知って、手放していったという話を聴いたことがあります。

いろんな人・いろんな人生があります。
神様はその一人ひとりを見ていらっしゃるんだなと、メンバーのイキサツを聴いて毎回思います。

摂理の勧誘は「人生の輝き」かもしれないです。

娘さんから摂理の行事に招待されて、メンバーとふれあう機会が多かった親御さんが今は摂理の壮年部メンバーとしていらっしゃいます。
小学校の教員を30年以上されたご経験があり、摂理のメンバーに会った時に「どうしてみんないい子たちなんだろう。
どうしたらこういう子たちになるように教えることが出来るんだろう。」そう思われたそうです。

あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。

マタイによる福音書 5章14節~15節

イエス様が当時弟子たちに向って話されたことですが、
自分の人生で、神様がくださった御言葉を行なって、
自分が出会う人たちに温かさや力や、希望や、癒しを与える
光のように生きるべきだと思う聖句です。

私自身はまだ光放っているとは言えないため、まだまだ自分を作らなければ~と思いますが、
たしかに、摂理人をみると光放っているな~素敵だな~と感心・尊敬する人達がいます。

そのように自分をもっと直して作って光放ちたいと思う日々です。