摂理は何か窮屈だと思う人がいるそうです。
そうかんじる理由はなにかあるでしょうが、
私が最近感じたことは、自分に責任があるということが前提の自由だなと思いました。
縛りというよりは、安全ベルトをつけるようなものだと思います。
たとえば、「喫煙禁止」を健康面で考えれば縛りじゃないように、そういうことです。
最近、あるメンバーに良かれと思って提案をしたことがありました。
明らかに、そのままの状態だとその子に不利益が生じえるかもしれない状態だったので、
わたしは指導者でもないため、一友達の位置で、悲しいことになってほしくないため
おせっかいだな~と思いながらも、見かねてちょっと踏み込んだ話をしました。
その子自身も指導者にも相談をしたそうですが、結局自分で今そうすることが必要だと思いますと
いって、そのように進めています。
それを通して、あ~やはり摂理って自由だなと思いました。
自己責任だ完全に。
本人がお祈りと御言葉で確認して行なうならば。
周囲も、天の願われることがなされるように祈りながら見守るしかない。
自分自身が天に訊いて、そして行なってみて自分で確認するんだなと
結果を考えるというよりは、本人が確認する。
それ成長するためには大切な過程なのだと思いました。
天に祈って訊いて、御言葉で確認しつつ行なうことは安全枠の中で
必要な経験をすることなんだなと。
同じ御言葉を聴いてもどう受け取って行なうかも、人それぞれだし、
真理の上の自由って個性どおり。
いろんな過程を経て、その過程の味を感じるようになることもありますし、
確認って大事!だよと確認に重きを置いている摂理って自由なところだと思ったんです。
自分が行なってみて感じること。
まさに生きた実践ってやつですね。