お師匠が教えてくれた御言葉の中で、まっちゃんが好きな話の一つに
「心の畑」
の話がある。
この話は、聖書の
<マタイによる福音書13章>
に書かれている。
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@takanakoubou
イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、
「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。
すると、鳥がきて食べてしまった。
@www.hirosegawa-net
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。
そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種はいばらの地に落ちた。
すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
ほかの種は良い地に落ちて実を結び、
あるものは百倍、
あるものは六十倍、
あるものは三十倍にもなった。
@jp.depositphotos
耳のある者は聞くがよい」。
<マタイによる福音書13章3~9節>
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@windychapel
この後に、弟子がイエス様に
「どうして譬え(たとえ)でお話になるのですか?」
と話す場面がある。
つまり、この話は「たとえ」なのである。
では、一体どういう「たとえ」なのだろうか?
お師匠は、
「聖書の中の問題は、聖書の中に答えがある。」
と教えて下さった。
よく読むと、
<マタイによる福音書13章18~23節>
でイエス様が「たとえ」を解いて教えて下さっている。
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@seeds.gldplants.
そこで、種まきの譬を聞きなさい。
だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、
悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。
道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
@jp.123rf.
石地にまかれたものというのは、
御言を聞くと、
すぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、
しばらく続くだけであって、
御言のために困難や迫害が起ってくると、
すぐつまずいてしまう。
@new-mu.seesaa
また、いばらの中にまかれたものとは、
御言を聞くが、
世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、
実を結ばなくなる人のことである。
@www.biodic.go
また、良い地にまかれたものとは、
御言を聞いて悟る人のことであって、
そういう人が実を結び、
百倍、
あるいは六十倍、
あるいは三十倍にもなるのである」。
<マタイによる福音書13章18~23節>
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ここに出てくる「畑」は「心」で、
「種」は「神様の御言葉」だ。
また、「いばら」とは、
「自分自身の中にある悪い考えや性格」
の事だとお師匠が教えてくれた。
お師匠は、この聖句を読んで、
自分の中にある「いばら」のようなものが
「自尊心」
「怠惰」
「高慢」
「我慢できない性格」
「血気」
「強情」
などの性格だと分かり、
それを一つ一つ取り除く為に毎日努力したそうだ。
@and-plus.
明け方、朝早く起きてお祈りに行っていた10代の時。
どうしても「怠惰」が出て、布団から起きれない日があった。
そうしたら、どんなに嫌でも
「遠く遠いところまで山を超えて走る」という試練を自ら課して、
「自分が自分自身の監督になって鍛えた」そうだ。
@www.dex.
この聖句にある「良い地」のように、
自分の心が「善良な義なる心」に完全に変わるまで、
お師匠は、
何度も何度も自分を練達して磨いてきたと仰った。
「何故そこまでするんですか?」
そう聞くと、
「神様が願っていらっしゃるからだ。」
「善であってこそ、善なる神様と通じる事ができるからだ。」
そう仰った。
お師匠の精神は、
「ひたすら主・神様」だ。
どんな時も、神様が最優先。
自分の考えよりも、神様の考え。
いつも神様に仕え、愛し、敬って生きる生。
それがお師匠が「実体」として見せて下さった生き方だった。
@matome
誰よりも聖書のイエス様の御言葉を実践し、
誰よりも神様を愛して生きた人。
その切実で、一筋の心が、本当に美しい。
「善良な畑」はまさしく「お師匠の心」だと心からそう思うまっちゃんでした。