摂理を紹介する行事の際、ご来場者アンケートに「世の中でなかなか聞けない話を聴けるから若者が集うのだと分かった。」とあるメンバーの親御さんが回答をしてくださっていたそうです。

鋭い!!!

と感服いたしました。

まったくもって、その通りなのですよね~

元旦から、かみしめました。
御言葉からもらう生きる力・希望。
空論じゃなくって、実体。
聖書に書かれている神様の愛を実践して成功する生き方を提示して下さるというか、
行なった方を通して神様が可能性を見せて下さるから、「行なう」のは自分の責任だと、じわじわやらねば!!
という気持が鼓動とともに湧き上がってきました。
いろいろ心にφ(..)メモメモした事ありましたが、個人的にびりびりと響いてきた一言。↓

「何をするにしても、タラントを増やしてきて話すべきことを作ることの実践だ。」

マタイによる福音書25章のタラントの譬えから来ているこの一言。
旅に出る主人がそれぞれの能力に従って、タラント(お金の単位の名称)を預ける話。
5タラント預けられた人、2タラント預けられた人たちはそれぞれ2倍にして返したけれど、
1タラント預けられた人は、心配して何もしなくて、預けられたものだけを帰ってきた主人に渡して、
主人をがっかりさせてしまうという話。

わたしはこの話を中学生の時に読んだ時、自分はこの1タラントの人だな~と思いました。
最初は、お金を預ける主人の気持ちが全く理解できなかったし、なくしたわけではなくて
預けたお金をそのまま返しているのに、怒られてしまうことに理不尽さを感じたりしましたw、
神様が与えて下さった能力を使って生きる事をさしているんだよと、学校で聖書の時間に教えてもらいましたが

でも、能力ってなに?
私に何ができるんだろう・・・
そう思いました。

摂理に来て、チョン・ミョンソク先生が実践することをみせてくださり、
作品になるまで書道も、何千回も書き直すとか。
何度でも行なう事、行なって無から有を作る姿、
成し遂げるまで、研究されながら行おうとする姿をみさせてもらったので、
あ~人の能力って、何かがうまく出来る特性・特技とかではないのだ。
人生を理想的に開発をして、行くような努力
前例がないとしても神様が願うことならば成そうとする挑戦すること
ひたすら、信仰で行なって残すことなのか。。。そう納得・理解できるようになりました。

自分の与えてくださった命・自分の肉体・人生をどんな生き方をして何を残すのか。

失敗やリスクを考えて、アクション起こせずに、
ただ食べて眠って肉体を存在させるだけの繰り返しの営み・・・うんざりだと思ったけれど、
石橋を叩く性格から抜け出せなかった私に、
「神様を信じて行なう事は成功が約束されていることと同じだから、やればやるほど得るものがある。」
チョンミョンソク先生がおっしゃっていた言葉が胸に響きました。

神様から与えてもらった自分の体という資本を神様に感謝しながら使って、出来ない事をまず出来るようにすることから挑戦してみようと思える力をもらいました。

行なったら、倍になる。
行なわなかったら、そのままになる。
非常に理致で、あたりまえで、行なうか行わないか・努力するかしないか二者択一。

失敗したらどうしよう、失敗したらやだな。
という考えがよぎる時は、その気持ちを神様に告げて行なってみると
思いもよらないところから助けてもらったり、
出来ないなりに一生懸命にしていく中で、様々な形で教えてもらえたり、
目に見えない神様がどこで働きかけて下さるのかワクワクするようになってきました。

自分というタラントは原石であり、失敗を通して学ぶことが沢山あるし、むしろ
その中で自分が変化できる。
痛い思いをしたら、そういう思いをしている人の気持ちが分かるようになるし、
苦労・努力をして、神様がくださった御言葉の価値が変わってくるようになりました。

神様と経緯を作りながら、自分が出来ない事を出来るように、変化させたり、増やして行ける。
これが、私が摂理で学んだこと。
チョンミョンソク先生が人生通して教えて下さったこと。
今年は、どういう経緯が生まれるのか、自分次第ゆえに、ドキドキワクワクします。