タルトタタンのように。。。

田舎の姉妹が作ったお菓子だというタルトタタン。

失敗から生じた世界的なお菓子タルトタタン。

秋になると山梨県内ではあちらこちらでこのタルトタタンがお目見えするので、その誕生のいきさつを知るようになって久しい。

タルトタタンを作りたいとは思うことはなく、食べる側で大満足なのだが
その名を聞いて誕生のいきさつを思い出すたびに思ったことがある。

失敗で終わらせなかったその想いってどんだけだったのか。。。

ざんねーんで終わせなかったのは、不屈の精神なのか。
はたまた、失敗して捨てるなんて!もってのほか、なもったいない精神だったのか。その両方なのか。。。
そんなことをタルトタタンと聞くたびに思っていた昨今。

もしかしてこんな気持ちだったのでは?と最近思い至ることがあった。
今年春にレモンジャムの簡単で美味しい作り方を伝授してもらい大成功で、これからは私の特技はレモンジャムづくりですと答えようと思ったぐらい感動的に美味しく作れたので国産レモン(できれば無農薬)が手に入るならば即買いしてジャム作ろう!と思っていた。
そんな思いを抱いている中、10月はレモンが旬なのだと小耳に挟み、県内で国産レモン、県内産レモンも手に入るようなチャンスが到来。そりゃ買うしかない。と、いうわけで前回より多めにジャムを作ってみたのだが、派手に失敗。。。

前回、無農薬レモンの皮を刻んで入れたのがものすごくおいしかったので、今回は3種類のレモンそれぞれ皮を多めに刻んで入れたところ、めっちゃ苦くなってしまったのだ。。。。

種類によって皮やワタ?の部分がすごい苦みが強いということを失敗して知った。。。素材の性質を知って作らなければなのね。。と。

ジャムとは言えない、その代物。期待と喜びで作った分、苦みの分、失敗のダメージがある気さえした。作ってから数日、直視できないというか、レモンジャムを詰めた瓶が視界に入るたびに、苦みが広がった。

あぁお金かけたのに、パーァだなぁ。。。
捨てるのもったいないなぁ。。。
自分のあほさ加減が辛いなぁ。。。
そんな思いがないまぜになりつつ、、、それでも消費しようと食べるが苦くて( ;∀;)泣きそうになる。
それくらいのジャムとしては大失敗。

だったのだが・・・・
晩秋に向かう肌寒いある朝、具沢山スープというかほぼ鍋のような野菜スープを作ったその日。この大失敗だったジャムが起死回生を遂げるようになったのだった。

わたしのスープごはんは1杯めと2杯め、3杯めとそれぞれ味を変えて食べていく。ポン酢⇒ナンプラー垂らす⇒パクチーちらすとか、そのときの気分と家にある食材で適当に美味しく食べるのが好きなのだが、この日ふと大失敗だったレモンジャムをかけてみようとふと思ったそれがレモンジャムの新しい門出となった。

レモンの苦みが柚子胡椒とは違ったさわやかでありながら裏手パンチのような何気に効いたアクセントとなっている。
それが斬新かつ、意外なおいしさ。

当初の予定のジャムとしては大失敗だが、調味料の一種として使うならばこれはこれで有り!と思った。

タルトタタンももしかしたらこんな感じで誕生したのかもね。。。
どうせならば美味しく食べたいわ。。。と、考えあぐねてなのかわからないけれど、偶然が必然となって新しく誕生。

もしそうならば、自分のあれこれのたりなさも主がおっしゃるように「作って開発して長所が一層輝くようになる」ということも起こりうるんだろうなと。そう慰めとともに、ほのかでありながらも確かな希望が生じたのであった。

一日を生きたら、何を得たのか振り返ってみよう。

今日は父のことを改めて嫌いだと思ってしまった。
手をちゃんと洗わないことはよろしくないといったところ「うるさい!」と逆切れ一蹴。
昔からそんななので、自然と避けるしかない心否めない。

父から昔「お前は何でそんな暗い顔なんだ」と責められるような問を投げかけられたことがあるがその原因はあなたゆえですと伝えたのは割と最近というか、摂理で信仰生活を経験しつつ、山梨に戻ってきてからだった。

正直な思いを告げるってけっこう心の労力を使うらしく、、、泣きたくもないのに涙が出てきて非常に後始末が悪い。。。
そんなことがまぁワンシーズンに1回はある。そのように、心の中にしまわれていた痛みを改めて取り出して整理整頓をするかのように家族とのあれこれを重ねて今がある。

重ねたからこそ、変化したものもあれば、
正直、もう無理じゃね?つーか無理だわ。と思う自分と家族の姿もある。

でも、神様は無理じゃない。
新しくなれる。
諦めるな最後までだと常に、本当に私が何度も無理だと思ったときになぜか毎回、「最後まで行おう」そうチョンミョンソク牧師を通してメッセージをもらうその不思議。。。

最後まで行い続けている方を通して説いて投げかけてくるそのメッセージは
嫌です無理ですとは言えない。
愛はあるのだ。
と認めるしかなかったその姿は、今なお変わらない。
その姿をみると私もやってみようとなんでだか、そう思えてくる。。。

そんなわけで、自分と家族のための祈りをもっと強烈にしつつ
私は一日の終わりに今日平和と愛を成せたのか?を問いかける。

いつも楽しく甲斐に満ちて生きているチョンミョンソク牧師から「一日の終わりに何を得たのか振り返ってみてください」と、そういわれたときにやはり、そのように振り返りをしながらよりよく生きるんだなと改めて思った。
日常の積み重ねを意識するのとしないのとでは、天と地の差。
自分の間違いもうやむやにしないで善し悪しを割くことが出来るのも本当に感謝。

今日は一つ、父の対処の仕方を一つ得た。
手をそんなに洗いたくなければ、せめてアルコール消毒を。と設置してみたところ、手を水にぬらすようになった。(洗うというよりは数秒ぬらしている感じ)一応このご時世の最中にやはり父も考えることがあったようだ。(まだ洗うというには、いい難い段階ではあるが)
こうしろと命令されているような感じだと反発したくなるというか、自分のやりたいようにやりたい。そういうことのようだ。
相手の想いを尊重しながらもお互いが善とするところを見つけそこへ誘導する技術を付けていきたいものだ。と思った。
蟻のような歩みでも日進月歩。
小さな振り返りから今まで選択できなかった行動をとる新しい自分へ少し変化する楽しみ得られた。