瞬間をつかんだ時のこと。

お祈り沢山する~にしても
聖書を沢山よむ~にしても すべて天との愛がなければ、本末転倒だな・・・・と
ちょっと今日いまいちだったなと自己反省をしております。。。

天と近くなれれば10分でも5分でも愛のイキサツだし、
聖書を開いて目に入ってきた一言が
その時の自分に本当に必要なひとことすぎて
号泣することもある。

つまり、心底、本音で
ありのままを天に告白、アプローチしてみた時に、返信を下さった事を思い出しました。

そうそう、

仕事で超失敗をして「こんな人神様も嫌だって思うだろうな・・・」と
申し訳なくて自暴自棄の嵐が巻き起こった事がありました。

でも、天の考えと自分の考えは違うってイザヤ書に書いてあるし、
聖書で答えもらえるってチョンミョンソク先生言っていたし、と思い出して

今私に必要な聖句、神様の一言をください!!って祈りながら聖書を引いたら
「あなたはわが目に貴い」という聖句が目に入ってきました。

確かに自分ダメダメだとしても、神様が大切だって言ってくれるんだったら
失敗挽回するように頑張ろうと思いました。
その職場で、私が言われたのは「あなた弱弱しく見えるけれどタフだよね。」
弱いんですけれど、強くしてくださる方が神様だからです。
と、その職場を後にするときに、証しました。

いろんなことがあっても起き上ればいいということですね。

 

「倒れるとしても、その瞬間に神様を呼びなさい」
チョンミョンソク先生が教えて下さったその一言が私の切り札の一つです。

縛りというよりは、安全ベルト的な。

摂理は何か窮屈だと思う人がいるそうです。

そうかんじる理由はなにかあるでしょうが、
私が最近感じたことは、自分に責任があるということが前提の自由だなと思いました。

縛りというよりは、安全ベルトをつけるようなものだと思います。
たとえば、「喫煙禁止」を健康面で考えれば縛りじゃないように、そういうことです。

最近、あるメンバーに良かれと思って提案をしたことがありました。
明らかに、そのままの状態だとその子に不利益が生じえるかもしれない状態だったので、
わたしは指導者でもないため、一友達の位置で、悲しいことになってほしくないため
おせっかいだな~と思いながらも、見かねてちょっと踏み込んだ話をしました。
その子自身も指導者にも相談をしたそうですが、結局自分で今そうすることが必要だと思いますと
いって、そのように進めています。

それを通して、あ~やはり摂理って自由だなと思いました。

自己責任だ完全に。

本人がお祈りと御言葉で確認して行なうならば。

周囲も、天の願われることがなされるように祈りながら見守るしかない。

自分自身が天に訊いて、そして行なってみて自分で確認するんだなと
結果を考えるというよりは、本人が確認する。
それ成長するためには
大切な過程なのだ
と思いました。

天に祈って訊いて、御言葉で確認しつつ行なうことは安全枠の中で
必要な経験をすることなんだなと。
同じ御言葉を聴いてもどう受け取って行なうかも、人それぞれだし、
真理の上の自由って個性どおり。

いろんな過程を経て、その過程の味を感じるようになることもありますし、

確認って大事!だよと確認に重きを置いている摂理って自由なところだと思ったんです。

自分が行なってみて感じること。

まさに生きた実践ってやつですね。