聖書に書いてあることをリアルでどう解釈するのか?タラントについて。

タレントの語源である「タラント」(新約聖書時代の通貨の単位)の話は、私が中学生の時に初めて読んだ。

カナダからの女性宣教師が建てた学校は今もなお信仰心が厚い。
言わずもがな私が通っていた時も年が若い学年ほど、聖書の時間が毎週一コマだけでなく、毎日礼拝当番があり、それぞれ持ち回りでメッセージ(説教)を伝えるということがあったり、新約聖書の有名な話を紙芝居にする課題などがあったりした。

その中の一つが、マタイによる福音書のエピソード、タラントの話だった。

5タラントを任された人はもう5タラント増やして、主人に10タラントを返したが、1タラント任された人は、もし無くしてしまったら主人にひどく怒られるだろうと思ったので、土に埋めておいて「これがあなたが私に託された1タラントです」と、主人に差し出したが主人はそのしもべの行動に失望をし、追い出した。という箇所だ。

私は、この1タラントを埋めてしまった人が怒られなじられることが理解できなかった。
むしろ無くすかもしれないような商売をするほうが恐ろしいのでは?と思ったからだ。
自分はなにも出来ない。だからこそ、無くさないように埋めるのがいい。とそのしもべも中学生の当時の私も思った。しかし、お金を託した主人は「それならば銀行にいれておけばよかった」と言った。お金が無くなった訳ではないのに怒る主人のその気持ちを、なかなか理解することが難しかった。託されたお金を無くすかもしれない。その恐れのほうがはるかに理解できるからだ。

でも、今は手に負えない額ではなく、その託す相手を信じて、預けたということだと、今はわかるようになった。考えなしに、適当に託したのではなく、その経験を通してより挑戦を通しての成長もできる。そういう意図もあったのではないかと。

しもべに託したのは「きっと、うまくやって銀行に預けるよりも増えるだろう。増やせる力がある。」と、見込んでいたということなのだと、時を経てようやく理解できるようになった。

私が30年前よりも20年前よりも、行なうようになったこと、それはお金を稼ぐことを通しての自己成長、鍛錬だったと思う。

逃げたくなったり、もうだめだと、思うことも度々あった。私は、もともとできない。どうせだめだ。というような考えが強かったから余計にそうだった。しかし、そういうときに、いつも思い出されたのは、チョンミョンソク牧師が自身の経験を通して教えてくれたことだった。

神様はこんな風に助けてくれた。だから、あなたも祈ってみて。と、教えてくれたことだったり、聖書の人物ヨシュアがいかに信仰で行なったのかを説いてくれたことだったり、人生を通して得た知恵や知識、神様の愛について説いてくれた数々、

それらに支えてもらって、私は、いろんな場所でいろんな仕事をした中で、いろんな理不尽な目にもあったけれども、自分の苦手なことも、難しいと思うことも、訓練のように繰り返すことで出来るようになることを体験したり、出会う人や出来事を通して必ず得るものがあった。
聖書にあるとおり、「無から有を作り出す神様」を感じた。

だから、なにもせずに埋めてしまった。そのことが、どれほどもったいないことなのか。
を、少しはわかるようになったのだ。

タラントを預けた主人としもべのたとえ話を通してイエス様は何を伝えたかったのか?
端的にいうと、神様は一人ひとりに才能(タラント)を与えている。だから、行ないなさい!というメッセージであり、

あなたには、もらっている才能、素質、能力がある!!行なって、成功を治めるべきだし、行なわないことほど、愚かなことはない。そういう教訓だ。

だが、私は自分の主観で、預けた主人の気持ちを理解しようとするこもせずに埋めてしまった愚かなしもべと心情一体だった。

そんな私が、主人の気持ちを汲めるようになったのは、辛いときにこそ、隣にいる見ていらっしゃる神様。目に見えないけれども、たしかな存在を御言葉を通して実感したからなんだと思う。

簡単に言うと、自分の考えだと絶望しかない。または、理不尽などうしようもない事態のなかで、恨みと憤りのるつぼにはまるしかないこともある。
しかし、祈るならば、御言葉を考えるならば、、神様の考え方だと、それを通して得るべきものを見出したり、乗り越えて進みやすくなる。そういうことを、大なり小なり、生活の中で積み重ねられていったからだ。

人は、自分の考えに陥りやすい。それだと本当に苦しい。
恨んでも何もならないと分かっているけれども、考えを変えられない。
私は長い間、祖母に対してそういう感情がどうしても否めなかった。
恨んでも憎んでもどうにもならない、父母それぞれに思うことも、申し訳ない。
それならば、自分がいなくなった方がいいんじゃないか。そんな風にずっと思っていた。

だから、騙されても、人を恨まずに、こうなった意味があるはずだと祈り求めたチョンミョンソク牧師を知ったときには、本当にそんな人がいるのか?と驚いた。
話を盛ってやしないか?と、思っていたけれども、チョンミョンソク牧師ご本人が話す機会をわたしは録音、録画、画面をとおしてだけれども、肉声とおしての話は、やはり説得力はその方が持っていると思った。

人を憎みそうになるとき、ヒトを恨んでもおかしくないとき、憤りで頭がいっぱいになってもおかしくないようなときに、自分の考えをおいて、神様に心を向けて人間には考えつかないような心を、考えを天からもらってその状況を乗り越えていくチョンミョンソク牧師の姿は、20年くらいたっても変わらない。
むしろ、より一層大きく、より強く、たしかだ。
到底出来ない場所で、今も私たちにこと細やかに分かりやすくこれ以上ないくらいの最高の説教を文章を手書きで送り続けている。

チョンミョンソク牧師は、若いときにかなり大きな金額を詐欺で奪い取られたときに、神様がどれだけ人類を愛しているのかを悟ったという経緯があるが、私はそこから鮮烈に学んだ一つのことがある。それは切実に、自分のありのままの心、思いを、祈りで神様に告げるということは、どんなに素晴らしいことなのか。ということだ。

自分の弱さを認めてこそ、神様からの助けも感じられる。
自分の弱さを知っている人ほど、強くなれる。
自分の弱さを知るのは言い訳とは違う。
弱いから、何もしない。なのではなく、弱いから、助けてください。
そう求めればいいのだ。

5タラント任された人は有能だろう。
けれども、1タラント任された人にしかできなかったことがあるはず。
量も大事だけれども、質も大事だ。
何よりも、任せた主人はそれぞれに見合ったものを任せたので、任された側どうしで優劣を感じる必要もない。自分は自分のすべきことをすればよかった。
人と比べることほど、意味がない。

タラントを埋めた人も自分の能力や可能性を主人は見出してくれて、任せてくれている。と気づいて、自分の「私は出来ない。無理だ。怖い。」という考えから抜け出せたら、行なって、自分の能力も可能性も確認できたはずなんじゃないか?

ヒトより、勝っているかどうかよりも、自分が今、幸せな心かどうか。
幸せとは人と比べて得られるものではない。
自分が行なってこそ、それが得られる。
と、思えるのは、1タラントだとしても、少しだけ私は増やせたのかもしれない。

そして、増やせるようにしてくれたのは、やはりチョンミョンソク牧師から教えてもらい続けているからだと言える。

人は良くも悪くも変わるものだ。だからこそ、努力とか、研究とか、よりよく生きるために、考えて、行ない続ける必要がある。けれど、それを実行するのはむずかしいはず。

少なくとも、私が知る限りはそうだ。

だから、今もなお最高に熱心に努力を行ない続けている今年80歳のその方に、そういう生き方を、学べることに感謝しかない。

教会に通うようになって高確率でもっとも言われること。

あくまでも「私が個人的に」よく言われることについてフラッと書いてみようと思う。

通い始めて、また通い始めてからしばらくたって言われたこと。
だいぶ通うようになってから言われたこと。
そして、最近いわれたこと。

家族から、昔からの友人から、久々にばったり道で会った友人から、前から交流がある同じ教会に通う友達から、
そんなに親しくはないが縁があって、話した人から言われたこと、

様々な時、相手から言われたことが面白いことに、全部共通している。

前より、良くなったよね。

はい。そうなんです。
年を取る分だけ、それを実感しております。

バイブルスタディを学び始めて1年弱のときに、本当に私はこのまま聞き進めて信仰者になってしまったら?どうなるんだろうか?と突如として不安に襲われて中学からの友達に相談してみた。
そのときに「何か搾取されたり、命令されているわけでもないならば、その不安は理由がないというか未来に向かって誰もがもつ不安じゃない?今、聞いてみて学んでみてよいと思うことがあるならば、様子見ても問題ないのでは。」と言ってくれたその子は、私が教会に通うこと自体が生活の一部になったときに「自分の意見をはっきり言えるようになったね。前は優柔不断だったけれど、それがなくなった。」と私が気づかなかった変化を、述べてくれた。そして変化した私をみて、自分もなにか変化したいと思ったときだったのか彼女もバイブルスタディを学ぶようになった。

痛快だったのは高校卒業して10年ぶりぐらいにばったりショッピングモールで会った子に「昔よりましになったね!」と言われた。ましになった。と言われてからさらに15年くらいたつが、最近は他教会所属(摂理の関西のほう)の子に「初めあったとき(8年くらい前)この人大丈夫かな?と思いましたが、だいぶ良いというか、話しやすくなったというか。」と言われた。

そして、わりと親しい友達にも似たようなことを言われた。「硬いというか、なんか嫌な感じがあった」と。ちょっとしたつながりで時々会う人からも「前より柔らかくなったよねーどうした?」とか。

自分自身で気づいている部分もあるので、やっぱそうなんだなぁ。と、思うの同時に、過去、迷惑というか嫌な思いさせて申し訳ない。と思う。(だから、人に会うのがあまり好きではないというのがある。)
ので、気を遣わせるとは察しながらも、申し訳ない。と、そう伝えると「いや、悪くはないんだけれど・・・」と、やはり気を遣わせてしまう。本当に、私は人とのかかわりが、むずかしいんだなぁと思う瞬間だ。

硬かった理由は、一言でいうと、自分のことを肯定できなかったからだとおもう。
祖母から生まれてきたこと自体を酷い形で否定されてしまったのがやはり人格形成にも悪影響だっただろうけれど、私はずっといろんな意味で一人だった。それが辛くて、寂しいということを、言葉にすることもできないかんじだった。言葉にすると、決定打になってどうにもならない事があらわになる感じがしてしまうから、いつもそれを取り繕うのに必死で硬かったのではないかと思う。

寂しさは、誰かといるほど、感じる。
そういうのは、人格形成どうこうではなくて、そういう習性というか、個性なんだと、HSPという傾向が自分にいろいろ当てはまるな~と思って知っていく中ですっきりした。(HSPもいろんなタイプがありますが、私は特にそういう面が一致します。)

善し悪しではなく、そういう個性。
だからなんだと、分かってから、何が自分は好きなのか、嫌いなのか(負担なのか)そういうことも改めて整理されたのと同時に、個性通りに働きかける神様。というのを、生活のなかで体験するたびに、癒されたのだ。

私は、これでいい。
私は私でいい。
全然良くないところもまだあるけれど、それがあるから全部だめってわけではない。
良くないところを直して、作って、よりよく生きよう。
それを今も変わらずチョンミョンソク牧師は伝えてくださっているけれど、
本当にそういうことなのだ。
そう、自分がそれをどれだけちゃんと心の真ん中に受け入れて、心地よいと感じる瞬間を天とともに生きるのか。
楽しいと思える瞬間を見つけていくことを通して、苦しいことも苦しいと気づけなかったのは、縮こまって、窮屈だったのだ。決して自分を肯定しない物差しで自分を図り、人と比べるだけだから。

信仰生活というものをしながら、常に自分と向き合う。
自分の足りなさを感じない人はいないはず。そして、神様の前では、どんぐりの背比べだ。
そして、誰かの物差しで善し悪しを決められても、驚くほどだれも責任を取らない。
つまりは、責任をとれない。そんな当たり前を、かなり年を取ってから理解するようになった。

楽しいとは、どういうことなのか。
そんなこと考えるのではなく感じるものだろうと大多数の人は思うだろうけれど、私は過去感じられなかったときが長かった。その理由どうこうより、それを通して、得たことは無駄で無意味とは言えない。
だから、それでいいのだ。

カナツギという日本特有の陶磁器の修理技術がある。
それに似ている気がする。
ひびが入ったり、欠けてしまった陶器に金などを流しこんで使える状態にするのだが、ヒビがはいったからこその味のある表情が生まれる。欠けたから、ヒビが入ったから駄目。ってことはない。
自分ははみだしもの。要らない存在。
そんな後ろ向きというか、いたたまれない気持ちで生まれてきてすみません。と、いつも思っていた10代だったけれど、今は「文句あっか。たとえ、あっても、言わせない。」そんな厚かましさを持てるようになったから年を取るのも悪くない気がする。

私にとって、神様の真理・愛である御言葉はカナツギの金のようなものだ。
私だけでは、なににもどうにもならない。要らないもの、捨てられるような存在として、見られて自分もそう思って存在していた。

けれど、神様の真理・愛をイエス様が伝えたかった天国・救いを知る分、その意味をわかる分、
人間が持っている善し悪しの物差しがいかに自分を辛くさせるのか気づく。

真理はあなたを自由にする。とイエス様がおっしゃったことが確かに自分の身に起こったのだと思う。