軍歌と平和とオリンピック。

8月になると、祖父がよく軍歌を歌いながら涙目になっていたのを思いだす。

その涙は、憂いというよりは当時に戻っている感じのものだった。

祖父は事故や病気で何度か脳の手術をしたので障碍者手帳を持っていた。
感情、言動にちょっと個性というか特徴があった。

時々、年相応の年配者のようになるが、子供じみた冗談が多くてどこからが本当でどこからが冗談なのか区別がつかないそんな面白い人だった。

そんな祖父が「ここはお国から何百里~」と軍歌を歌いながら「曹長殿~」と涙する寸劇が始まり、B29がとかいろいろ
当時のことを語りだすあの夏の日が懐かしい。

私が小学生だった時は、夏休みには必ず戦争映画、ドラマが放映されていて、というか大体夏休み入る前には「火垂るの墓」を学校で鑑賞する時間があって戦争について考えさせるときだった。
それに輪をかけるように祖父の演劇的回想は、私に生々しい何かに触れさせる感じがしたものだった。

「あんくれぇのとき、だったな。満州に行ったのは。」と高校球児たちの試合終了の涙と一緒に涙を流す祖父の姿。
校歌斉唱と一緒に軍歌を歌いながら、当時見たものについてとつとつと語る。

祖父は、大正生まれにしては体格が良く、170センチ以上あり健康優良児という太鼓判を押されて陸軍に配属されたそうだ。
戦争に行く前は相撲大会で優勝をした写真があり、額に入れて飾ってあった。
兵隊になったら大砲を担いでかなりの距離を歩いたと言っていた。
戦争で死ぬのは、兵士だけじゃなくて、子供や女のひと、おばあさん、おじいさん、民間人もだ。たくさん、目を覆いたくなる思い出したくないキオクは多く語らずにいた。

もし、戦争がなかったなら、
野球や相撲で、隣国交流出来たかもしれない。

笑いあって、美味しいごはんを一緒に食べて、青い空の下で汗をかきながら入道雲を見上げながら、スイカを食べる夏の暑さも心地よいそんな日を過ごせたかもしれない。

「もうあんな思いはしたくない。」

いつも戦争のことを思い出した後に、その一言をつぶやく姿。

戦争がどれだけむごく恐ろしいものなのか、記憶の傷をなぞる祖父の姿と平和だからこそできるオリンピック競技の中継を見ながら思い出した。

祖父のその一言には、同じような思いを味わせたくない。そういう思いも感じた。

おじいちゃん、大丈夫だよ。

戦場で敵を愛して誰も殺さずに生還してきたチョンミョンソク牧師から愛って平和ってどうやって培っていくのか、成していくのかそれを学べるから。
自分の生活の中で出会う様々な場面で最善を尽くすことが出来るから。

なかなかむずかしいとしても、平和と愛を成すことを選択できるよ。
そうできるように、日々もがいているけれどね。
私だけのメダルを目指して人生を生きてみているよ。

生きることの意味と目的を問い続けて今があることについて。

私の10代は、生きることと死ぬことを常に考えていた。と、思う。

いまコロナの影響で自死を選択する若年層が多いとニュースで頻繁に聞くようになり、私だけではなかったんだなと、時を超えて知った。

何故生きるのか?生まれてきた意味は何なのか?どうしてこんな思いをしてまで?何のための人生なのか?

そんなことを考えるなと言われるとき、苦しみと悲しさと目的も意味も不明確なのに辛くてもただ生きろと言われることに、一層の隔たりを感じていたことを思い出す。

今月、40になる私が今思うこと。

「生きていること」それが本当に大きい。
使い古された言葉だけれども、心から、実感できるようになった。
だから、もう40だとは思わない。

たとえ、結婚していないし、子供もいないからと憐れまれるとしても、私は幸せだと言い切れることの事実。
素敵な伴侶がいて、子供がいて、経済的にも安定してて、、、そういう人にくらべて「自分はなんて哀れで無様なんだろう」って思うことがないこの不思議さ。

何の希望も見いだせない自分自身が大嫌いだったことが致命的な辛さの一つだった
その治しようがない考えの病。

どうやって癒されたのか、それを振り返るとだれしも生きる中で一度は神様って呼ぶはずだがその存在に生かされたと認めるしかない。

ちゃんと愛があるならば、生きる意味があるならば、責任をもって行いを見せながら教えてくれる存在に会わせてくれ。私が死ぬのがもし悲しいと思ってくれる神様ならば、生きることが本当に素晴らしいならば、実感をくれ。と、願い続けた。

教えてくれる存在に出会わせてもらったあとも貪欲に求め続けたゆえの今だから。

私がこの世から去るまで、自分に起きた奇跡を一層感謝しながら、孤独の哀しみにいる人に少しでも届くように祈りながら
ブログを続けたい。