ゴーストライター説があるんだってさ。

チョンミョンソク牧師が毎週説教原稿を書けるはずがないということで
「ゴーストライター」がいるはずだ!という話をしている人がいるんだと、ある牧師さんから聴きました。

そう聞いて、やはりと思う人どれだけいるでしょうか。

私みたいに、脱力しながら鼻で笑う人のほうが大多数だと思います。

なぜならば、その原稿量(長さ)を見るならば、
ゴーストライターは複数いるはずなんです。
でなければ、間に合わない
そのぐらいの内容量です。
その上、チョンミョンソク先生が書き送るのは原稿だけではなくて、各個人に宛ての手紙や作業当の指示・決済
と多岐にわたっており、また内容はその主日の説教の流れで送られています。

もし、複数いるならば、内容がかみ合うかどうか?前後でずれがないか?
そういう問題が出てきます。
でも、全部が一環しています。

また、人がどうこうではないんだなと痛感するところとしては、
一般的に、内部の問題は多くの人が知らないように伏せたり、ごく一部の人達だけに展開される傾向がありますが
主日の説教原稿の中で問題をドカーンとあらわにされて、こうあってはいけない!と
全体に告知・教育されるのは圧巻です。

人を意識せずに、
神様の前に
何が義であり、公正であるか
それを体現されている・・・。
これが10年越しの在籍者としての感想です。

ライターがいるはずだと思うのは
摂理の真の実体を知らない方の推量ゆえ致し方がない。
赦しの心を持つのだとそう、天がやわらかな心をくださいました。

世界にあふれている「モノ」との戦い。

人生はあてのない旅のようだと、だれかが表現していたが

私は、人生は名前の無い戦いだと表現したい。

みんな何かと戦っている。

大きくなれば、いつかはわかる

いつかは自由になれるのかなと思っていたが

 

 

見えるものが多くなるほど、

出会う人が多くなるほど、

その名前のないモノとの戦いは、

年をとる分、複雑になっていった。

 

名前のない戦いは、疲弊がハンパない。

砂漠の中、オアシスがどこかにあるかも解らず放浪するかのごとく、

ここではないどこか、に自分の安息があるのではないか

そんな蜃気楼のような希望を懐きつつ、

名前のない戦いを日夜、繰り広げる。

あぁ、山月記の主人公はきっとこんな気持ちで虎になったんじゃなかろうか、

私は、虎にもなれそうにない。

どうせ生きたまま腐るなら、納豆ぐらいにはなりたいものだと思った時

名前の無い戦いに、勝利した存在に出会った。

勝利した存在は、勝利しただけあって

ホントの戦い方を教えてくれた。

 

憎しみや怒りや憤りこそが疲弊の原因であり

赦しとは

愛とは

希望とは何なのか

血と汗が乾かないまま語ってくれた。

 

世界に溢れている戦いを終わらせようと

自分を差し出した、その存在が

どんな勝利をしたのか

知れば知るほど、永遠が

遠くなく、

実際なんだなあと理解できるようになった。

 

 

戦いはまだ続いてる、

でも

戦いの終わらせ方を知ったから

疲れても

倒れても

また立ち上がれる。

ただ勝利者の手を取れば、良いのだから。