今はなき名店のグーグルマップのクチコミと私の記憶と記録。

結論は、人それぞれである。そして、それは自由であるというところにある。
けれども、もったいないなぁ残念だなぁと。そういう気持ちが、こみ上げるだから文字にしておこうと思った。

山梨大学の近くに今は駐車場になってしまったけれど、中華料理屋さんがあったのだ。
通るたびに、小さく古びた平屋建てのお店のたしかな存在感は、何十年と様々な人を満たしてくれて来たような気がして、ずっと気になっていた。

しかしあの場所、今でこそあちらこちらにコインパーキングが出来たけれども、当時は皆無かつ駅から離れているため、かなり機会を設けるかたちなってしまう。
なので、チャーハン食べたいなぁと思ってからお店の扉の前に立つまでにかなりタイムラグがあった。

さぁようやく、と思ったその日は後悔の日となった。
出前のバイクも、のれんも出ていないな。と、お店を遠目に見たときに思った。
嫌な予感がした。
ただの休店日であってほしいと思いながら、扉の前に立った。
ガラス越しから店内をみると、壁ににぎやかにかかっていた品名は全部なくなっており、
カウンターもすべて空っぽだった。

閉店されていたのだ。
ピカピカに磨き上げあられたカウンターが、このお店がどんなお店で、店主のかたがどれだけ真心を込めていたのかが感じられて、本当に後悔をするしかなかった。

あまりにも、あまりにも後悔して気を紛らわせるような気持ちでグーグルマップの口コミを見てみた。
やはりチャーハンが絶品のようだった。
わずかな低評価があり、覗いてみた「店主が嫌だ」と書いてあった。
お金を出しているのだから、客のタイミングで食べてもお店は何の損もしないはずなのに、スマホを置いて食べろと言われ非常に不快だった。
そんな感じの内容だった。
それに追従するような投稿が3つほどあり、時期も似ていた。
おなじような体験をした人がいたのか、憂さ晴らしに同じ人が別アカウントで書き込んだのかわからないけれども、そういう思いをした。ということだろう。

低評価クチコミから約半年後のクチコミに「アツアツでパラパラの絶品チャーハンを食べたくて息子に会いにくる口実でお店に来ました!!お店のご主人が寡黙な職人タイプでちょっと怖い印象がありますが、人情あふれる昭和を思い出します。素敵なお店が息子の下宿先近所にあって本当によかったです」とフォローするような内容を見つけた。
また、OBが「昔から変わらない。懐かしくて、帰省の際によれたら寄っている。口うるさいかんじが今の子には、理解できないんだろうな」という一言も目にした。

店主が75歳以上になり高齢のため、お店を畳んだ。ということのようにも見えるけれども、
苦々しく残念な気持ちが食べられなかった絶品チャーハンを思う分、わたしの中に広がった。

若い人のなんで怒られなければならないの?自由に食べさせてよ。という気持ちもわからなくもない。
言い方は無骨で、嫌な言われ方をした気分を害した。味わえない心持になった。ということだろうけれども、
電気が消えた店内でも輝きを放つ磨き上げられた美しいカウンターを見て私はおもう。
重い中華鍋を持ち上げて、御飯と卵がよい感じに混ざって、香りと彩りが豊かになったころ合いを見計らっておいしそうにお皿に盛りつけアツアツの美味しい状態を味わってもらいたかった。来てくれた人を思いながら作るタイプのかただったんじゃないか。と、

せっかく美味しく作ったのだから、美味しく食べてもらいたい。
そういう気持ちだったんじゃないか。
それが届かなかった残念さというか、それを受け取れなかった若者たちの残念さが勝るところがあるように思えてしかたがないのだ。

時代が変わった。ジェネレーションギャップ。価値観の相違。
と言ったらそれまでだけれど、永遠に食べられなくなってしまった絶品チャーハンをとおしてわたしは深い教訓をもらった。

クチコミ件数50越えかつ総合評価が4.0を超えても、ほとんどの人がおいしい。と言っていても、店の主人が嫌だ。という人たちは一定層おり自分の価値観と相容れない。自分のタイミングで食べたいと、すぐに食べなくてもいい。それが客の自由である。という声。
いろんな価値観、考え方があり、それぞれ自分が正しいと主張するとなると戦いになる。

でも、じつは簡単なことだ。
美味しい。とは嬉しいこと。

自分のタイミングを重要視する、自分の価値感を大切にしすぎると、自分の得るはずだった幸せを逃すだけでなく、失うこともある。
そういったシンプルなことを逃しているかもしれないと。

気づけなければ、それこそ一生何が欠けているのかわからないままになる。

楽しい。うれしい。も、人それぞれである。
しかし、食べることは生きること。
美味しく生きるには、一人では生きられない。
誰かの存在があってこそ、でもある。
そういう、他者への敬う思い、想像力をいつも抱けるか?そういうこともこの事例から学ばせてもらった。
あと、人は言われた内容よりも、言い方が気になるもの。という心理学系の本で見かけた話を思い出した。価値観の相違プラス自分のプライドを傷つけられるような言われ方をした。と感じるような言われ方だったのだろうと。
わたしが父や妹と不仲なのはおそらくこれであると省みる機会となり、あらたな自分づくりの材料になった。

今週の「相手の心にあわせて行ないなさい」という主日礼拝のメッセージとリンクするところがあり、豊かな人生を生きるとはどういうことなのか。を思い起こす今はなき名店のエピソードは、食べたくても食べられなかった絶品チャーハンの対価のような気がする。


噂のヒンメル構文と葬送のフリーレンのオープニングソングluluの歌詞。

外国でコンビニ強盗を捕まえた人が葬送のフリーレンの大ファンの方で「ヒンメルだったらこうする」と思いながら行動した。という記事を読みまして、デジャブに似た親近感がわきました。

(念のために葬送のフリーレンについてご紹介すると、サンデー連載中の漫画で、アニメ化されており、ヒンメルは作中の勇者です。作品タイトルになっているフリーレンが度々「ヒンメルだったらこうする」というセリフをつぶやくのですが、それを作品のファンの間では「ヒンメル構文」と名付けられているそうです。)

フリーレンのように、「ヒンメルだったらこうする」と口走る口癖が国を超えて諸外国にも。というジャパニメーションの威力、人気のすごさを実感しつつ、わかりみがふかい。そう思いました。

たぶん、私だけではないと思う。
チョンミョンソク牧師だったら多分、こういうときこうするんじゃないか?と、学ばせてもらった!と思う人たちはきっとなんらか「先生だったらこうする」そうおもって生きているんじゃないかなと。

わたしも「チョンミョンソク先生だったらこうする」と公共施設使わせてもらったり、道を歩いているとき、山登しているとき等々ゴミ拾いをしていることがありまして、

それってあまりにも自然、ふつう過ぎるとおもっていましたが、ともすると「先生だったらこうする」と行動していく中でインタビューに答える日もくるのか?もしかしてそんなこと思ったのでした。(わたしのような小者でなく、大物なかたはあり得るかなと)

そして、オープニング曲のミセスグリーンアップルの「lulu」が本当に素敵な歌詞&曲です。
1番と2番で歌詞の主人公が成長していくのが自然と見えるところに心揺さぶられるのです。

1番で「世界がもし優しかったら」という歌詞が2番では「私が優しくなったなら」と自分の周りの世界が変わることよりも、自分がどうするか?自分が変化することが世界が変わることになるのだ。と、気づいて行動しようとし始める、その心の機微、対比が成長の過程と、その変化した一人が、世界を変えていくんだなとかんじられる壮大なメロディに感動に包まれるなかでわたしもそうだったなあと想うのです。

そう、わたしもチョンミョンソク牧師の教えてらっしゃるバイブルスタディを聞いて一つ一つ聖書の読み方を知って、自分の考えを整理して、いるものいらないものを分けていくなかで、自分の視点で周りをみると問題の答えは、周りにあるように思えてしまうけれども、本当はそのとき、その環境、状況で自分がどうするか?どういう考えで判断し、行動するか?で変わって来る。

自分が変われば、世界が変わる。というのを、小さな積み重ねで少しずつ気づいたときに、神様の考え、真理、歴史を知ることは、自分を新しく作ることになる。そう心震えたその瞬間を思い出すのです。

新緑に輝くこの時期にもぴったりな素敵なこの曲を聴きながら感謝と感動があふれます。