摂理で「怖い」と思ったこと。

中央大学で摂理に出入りすることを止めなさいと
説得を受けた子がいる。。。

でも、摂理に通い続けていた。
そして、親にもオープンに説明してメンバーとルームシェアをしていた。

そうだよね。
何も悪いことをしていないから、ちゃんとやり取りが成立する話し合いできる親子ならば可能なのだなと思った。

その子はこうも言っていた「わたしはもう失うものはないんです。」

いろいろ考えさせられる一言だった。

失ったものがなんなのか、ちょっと聞きづらくて、いろいろ憶測してしまったのだが・・・
事実を調べようともしない一方的な大学側に対しての残念な思いなのかな~とか思ったりした。

または、全く別の意味なのかもしれないけれども。。。

 

事実を調べたり確認もせず、当事者の意思等聞こうともしない
「カルト集団」という暗黒色の色眼鏡で
摂理を見ている大学とそういう話をしてくる大人たちに怖さを感じることは、あったのではないだろうか。。。

しかし彼女は、
自分が目で見て、感じて、考えてたこと、貫いて
堂々と大学生活をして、大手の会社にも就職していった。

ちなみに、親とどんなやりとりをしているのか?と訊いたところ
「私がどんな話を摂理で聴いて、聖書を学んでいるかを知ってもらおうと思って
バイブルスタディを母に伝えてみました。」
とのこと。

信頼関係があったから、出来たことだと思うと話していた。

お母様は摂理で信仰生活をすることをまだ善しとは思っていないそうだが、
「あなたの人生だから」と言われ止められはしないと言っていた。

彼女の話を通して、いろいろと感慨深くなる。

摂理が本物だと思う3つの理由。

 

1.変質なのか変化なのかは、自分次第であること。

御言葉を聴いて、その御言葉を考えて生活の中で何等か少しでも行なってみる時、
何かが変わる。
逆に、聴いたことを確認したり、考えても見なかったりすると何も変わらない。
神様は毎日次元を新しくする。宇宙が日々大きくなっているように。
人間も肉体は衰えていくとしても、
目に見えない世界に考えを置いて自分を作ることができる永遠な神様と共に生きる祝福。
これは、知れば知るほど、深く。
分からないことが分かるようになる分、楽しい。
チョンミョンソク先生がどうして、いつも喜んで感謝して生活されるのか。
それは真の喜びと感謝について知っているから、そう生きることができるのだと見ていて思う。

すべて御言葉で確認。祈って確認。行なって確認。
それをしなくなると自分の考えに閉じ込められる。
逆に、祈った分・御言葉を学んで行って確認した分、解かれるべきものが解かれる。
だから、変化する。
ゆえにいつも、自分次第。

 

 

2.個性が全く異なる人と、調和を成したこと。

自分とまったく正反対な個性の妹がいる。
その子が人生について深く考えるようになった時に摂理でバイブルスタディを学ぶことを勧めた。
自分と全く個性がちがうし、私が摂理で信仰生活をするようになった時に、「宗教にハマった」と否定的に見ていた彼女なので、人間的に考えたらむずかしいのだが人生について深く考えているようなので、
神様にゆだねて、提案をするように話してみたところ、摂理で学ぶようになり、そして信仰生活をするようになった。本当に人間には霊があるんだなと、妹をみながら思う。

彼女と私は個性と考えが全く逆なので、一つになることが至難の業なのだが
さまざまぶつかる問題の中で、私の考えを御言葉で取り除いて、神様の考え学んでそれを持って問題が解かれていくのを見て行く時、個性が調和されることを知った。

自分の考えで相手を図ってはだめだよとイエス様がおっしゃっていたがまさにそれに尽きる。。。
まだより完全な次元に至るためにお互いもがきだけれど。
神様の愛で、互いを認めあえる瞬間がとても幸せだなと思う。

 

 


3.数年前と今を比べると自分も摂理も、より理想的に次元を上げていること。

自分の今や、摂理の行事・文化芸術や摂理人の言動を見ると今の方がより理想的だなと思う。
どうして前より理想的なのか?それについて考えてみた。

上手くしたくても出来ない事。もっとこうしたいのに、それを成せない事。
いわゆる、もがき。
摂理人で、もがかない人はいないんじゃないだろうか。

みんなそれぞれの位置でもがきの努力の結果、変化して今があるんだなと思う。

完全に作ろう。
とおっしゃった御言葉は、どこから来るのか?
行なったことを通して教えてくださる方を思い出しているんじゃないかな。

誰もが出ていくことを願った場所、月明洞を
世界中から年間100万人が訪れる場所に作った実践力。

神様が喜ぶことを、人に何を言われても、濡れ衣着せられても、
神様の願われることを行なわれるチョンミョンソク先生。

言葉だけの理想ではなくて、日々行なったことをもって伝えられているその姿。

言葉に出来ない苦労や傷だらけになっている自尊心も
まったく微塵にも見せない笑顔で、真実な心と愛で行われているその姿。

今日もその姿を考えて、あともう少し、もう一度やってみようと思うんじゃないかな。

神様の愛は妄想でも虚像でもない。
神様と共に行なって日々なして行く、実体だということを見せてもらったから。

だから、昔と今だと今がより新しくなるしかない。
なぜならば、生きていらっしゃる神様と共に生きることを教えてもらったから。

私も新しく、みんなも新しくなる理由は
奇跡を実体化させた生き方をしている方を知ったからなんだなと思う。