空飛ぶスパゲッティーモンスター教の存在から得るもの。

アメリカに「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」という団体があるとちらほら聞いてましたが
パスタの湯切りボールをかぶって写真を撮るというオモロすぎる行動が宗教上の行為として認められたと
報道があり、興味深く拝見しました。

正直なところ「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」という名前からして、この団体はカルトなのかな?と、そう思ったのですが
よくよく確認してみたところキリスト教のある一派にたいして痛烈な皮肉・風刺的ジョークで対抗しているようです。

アメリカでは運転免許証の写真を撮る際に、頭部を覆うような帽子などの着用は<宗教や健康上の理由>で認められる場合があるとのことですが、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」の信者の信仰心を弁護士等を通して認めさせた模様。

「「免許登録所の人たちは、私を見て笑っていました」。ミラーさんは、ボストン・グローブ紙に当時の体験を語った。「私は、理不尽だと思いました。『この信仰を聞いたことがないというだけで、免許を認めないなんておかしい』と思いました」ミラーさんは、頭に湯切りボウルを被ることで、神であるスパゲッティ・モンスターに対する信仰心を表現できるのだと語った。自動車登録所の広報担当者はAP通信に対し、免許証写真では、帽子などで頭部を覆うことは認められないが、宗教的理由により例外を認めていると述べたという。」

HUFFPOST日本版より

「頭に湯切りボウルを被る」そりゃ笑うしかないだろう。。。
と思ってしまうのですが、
これをどこまで大真面目に言っているのか、それが争点かつ焦点。

このニュースを通して日本とアメリカの差をまざまざとかんじます。
地球と自分の誕生、その存在意義について人間ならば一度は考えることあるはずではないかと思うのですが、
そういったことを生活や学校の教育などで、考察・主張など日本になかなか見られないですよね。
考えても仕方ないじゃんという声がどこからか聞こえてくる気がしますが(^_^;)
考えないで人生終わるよりは
考える材料をもって取捨選択する方が、後悔がないのではないかと個人的にそう思います。
かといって、疑問がある内容が公的な機関・学校で教育として実施されてしまうのは
確かに反論・抗議等したくなる気持ち分からなくないなぁとはたから見ていて感じます。
もし日本だったら、「教育委員会が言っているし」とか
「みんながいいって言っているならそれで」というようなかんじで
多数決や公的機関に任せてしまいかねないような所があるように見受けられるので
「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」は宗教というよりは、宗教人を嘲笑しているような感じではありますが、
日本にはない感覚と行動力にいい意味で衝撃をもらいました。

また、このニュースからリアルに宗教と科学が対立する現状があることを知って、
アメリカの摂理メンバーが摂理のバイブルスタディに感動する理由がバシっと肌身に感じられました。

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Not家族崩壊=家族再生。>摂理の問題ホントのところ

祖母は90歳越えている。
先日、玄関先の段差で転んでいるのを目撃した際、

「チクショーいてぇなぁ、ごくろーなしめ。。。」自らの老いに悪態つきながら起き上がっていて
気の強さは今なお、健在と思った。

三つ子の魂百まで。ということわざ、平成生まれのみなさんあまり使わないかもだが、
私にも受け継がれている気の強さというか血気の問題は祖母や父を見て思うところ。。。

幼いころ祖母が祖父を鍋で叩きながら口げんか(鍋凹んでいました)していたり、
父が怒鳴り散らしているのを見ながら育ったので、どこの家庭もこういうものなのだろうと思ってた小学生時代、
友達のおうちに遊びに行った時にあまりに穏やかなご家族におどろいた記憶がある。

見たものに影響するし、怒鳴らずに対話するということを知ることなければ
やはり連鎖は止められず、私も妹たちにそのようにして、自己嫌悪の嵐。
また、話そうものならば、怒鳴り合いに発展するような負のコミュニケーションのため
家の中は自然と静まり、ダークトーンな雰囲気醸し出すしかないこと常であった。

今では、山梨という田舎にもメンタルヘルスについて公的な機関も取組があったり
心療内科やカウンセラーなどもいるようになったが、
私が学生の頃は自分で心理学の先生を捕まえて質問したり
自分で心理学・メンタル系の本を読んでどうにか改善できないか、研究したり、実際、カウンセラーに診てもらったり、いろいろと自力で出来る限りするしかなかった。

参考になる事もあったし、心の整理も進んだこともあった。
けれども、こみあげてくる血気・憤り・負の感情をどのように対処したらいいのか?
それについて根本から答えをくれる本はなかったし、人もいなかった。

根本からの解決、それは
「こんな私でも生きてて良い」そういう答えが欲しかったのだ。

こんな私・家族だがどうしたらより良くなれるのか?

それを教えてくれるところ・リアルに助けてくれるところ
そんな存在が欲しかったのだ。

当時は、いろいろと疲れてきてもういいやと仕方ないものは、仕方がないと諦めていたのだが
摂理で根本の答えに出会うようになり
切って捨てたかった、悪なる感情について
実際に、どのようにしたら捨てられるのかを学べるようになったのと
かさぶたと血だらけだった心を
羽毛布団みたいなやわらかさと温かさで神様が包んで下さった。

自然とおだやかに笑えるようになった姿をみて、
両親は信仰生活を反対するはずがない。

そして、
摂理のメンバーに会う時に、「いつもお世話になっています」と心から感謝するしかない。

父が数年前、壮年部(結婚してから摂理のメンバーになった部署の方)のお店でメンバーと食事を一緒にした際に、
「自分がうまく出来なくて、娘に辛い思いをさせていた。今、こんな風に元気になっている娘の姿を見て・・・ありがたい」そういいながら、目を潤ませているところを目撃。
そんな風に思っていたとは全くわからなかったから衝撃だった。

チョンミョンソク先生がよく「話してみなければ分からない。話さない事で誤解するのだ。」と対話することの必要性を説いて下さっていたが、本当にそうだなとおもった。

対話の必要性は分かっても、対話が成立するには傷む心を癒してくれる絶対的な神様の愛が必要だった。

神様の愛は思い込みでも、マインドコントロールでもない。
ただ、求めたとおりに、応えて下さる神様だと
体験してそう思う。

そして、宗教で家族崩壊する新興宗教の話は書籍になっていたり、講演会していたり、救済活動もあること知っているが
摂理において(私自身は摂理は新興宗教だと思っていないが、そう捉えている方もいるようなので)は、摂理から離れるよう強制的な監禁等をしている団体からの偏りのある加工された情報で恐ろしくなってしまったご家族が、そちらに言われるがまま、監禁することなどを許諾するにいたり、家族間に溝が生じる問題があるを見聞きしてきた。

しかし、昨今の摂理では、ちーちゃん家族のように
一家で、楽しく摂理メンバーになることが、5,6年前に比べてよく聴く話になってきている。

それをとおして、
問題はどこにあるのか?
実際が、見えてくると思う今日この頃だ。