統一教会と献金とか、そこんとこどうなの?と気になる場合。

いつの間にか「旧」という名称が入っていて今回を機に知ることになったのですが、旧統一教会とキリスト教福音宣教会は兄弟的なものではと捉えられることがあります。

何がどう違うのか?と、みんなが気になっている「献金」について含め3つにまとめてみました。

①イエスキリストをどのように信じているか?
かの団体では、失敗者としてとらえているそうですが、キリスト教福音宣教会(通称摂理)では、名前に冠しているように
救い主、メシアとして信じて尊くとらえています。総会長牧師のチョンミョンソク牧師は、イエス様が十字架で死ななければならなかったその心情を悟った時に三日間ほど涙が止まらなかったほど。そして、その愛と神様のくださった救いについて命を懸けてイエス様を絶対的に信じて伝えようとしているが故、困っている人がいたら自分の交通費を上げて徒歩で30キロほど歩いて帰るのもいとわないような人です。

②聖書の解釈が似ている。
捉え方が似ている部分はあるらしいですが、上記にもあるように結論というか、核というか軸がまったく大きく異なっているので解釈が似ているところがあっても「ざるそば」と「もりそば」の違い(海苔の有り無し)、冷麦とそうめんの違い(麵の太さのちがい)、理容師と美容師の違いというか、とにかく似ているようで違う。それに尽きます。
わたしが旧統一教会に潜入取材したわけでもないため、はたから見た印象と巷で持たれているイメージで勝手なことを言わせてもらうと、おそらく団体の創始者=絶対権力者。そんなイメージを持つのではないかと思います(日本でかつて大事件を起こした宗教団体がそうだったからそうみられても仕方ない気がします。)
総会長牧師の座右の銘が「ひたすら主、神様」とイエス様がおっしゃった「心と思いと精神を尽くして神様を愛すること」そういう信仰を育てること、自分と人生をよりよく作ることについて具体的な説教をしてくれるので、個人がよりよい成長をするときに個性の王となるという話をされることがあります。なので、権力者というよりは分かるまで何度でも教える寺子屋の先生みたいな常に教えてくれる総会長牧師です。(最近の人はきっと寺子屋なんてわからないだろうけれど笑)

③献金問題の有無。
昔先輩が、聖書学び始めたときに、万が一壺の話が出てきたら速攻やめようと思っていたんだよね。と、笑っていましたが、統一教会と言えば、なんだか高い壺を買わなければならないということがあったり、もろもろ金銭的な話題がありましたが、そういう高額なよくわからない買い物をしなければならないということがないです。ないからこそ、非正規雇用低所得者の私もいるわけです。じゃ、献金とかどうなのか?というと自己申告制というか、聖書に書いてあるとおりの十分の一献金とか(1万円の収入のうち、千円ってこと)そういうものはありますが、それでさえ強制ではないです。もし、様々な事情で経済的にむずかしければ、その分神様に祈りで感謝をささげるとか、教会の掃除をするとかそういう代替だとしても、あくまでも個人の自由。

ちなみに、以前まったくもって言い得て妙であると思って笑ったことがあるのが
「摂理がお金目当ての団体ならば、もっと高齢者を狙っているはず」と話していたサバサバ系牧師の一言。
実際、私の実家のお寺は新しい石塔を立てるために一口20万円の寄付金を集めていましたが、そこに、信念とまごころ、愛はあるんか?(←アイフルCM風)と、問うまでもなく。やはり村社会体制としては言われるがまま、おかしいという思いを抱きつつも、伝統大事、右ならえで治めておりました。
そういうご経験がある方や、身近に目撃されたことがある方は、やっぱ宗教って面倒かつお金絡むのよね!と怖ッと思ってしまわれるのも仕方ないのでないかと思います。が、そういうことが無い宗教もあるので、世界は広いです。と伝えたいです。

勧誘に気を付けて!という注意喚起を見るたびに。

春から初夏にかけて、毎年のように目にする。
それは、「カルト宗教の勧誘にご注意!」的なアナウンス。これはもう季節の風物詩レベル。

というか、そもそもカルトではないのにカルト扱いされる身、としては「カルトじゃないのにどうしてカルト扱いされるんだろう」という疑問から考察を重ねてきました。

恐らくは、よくわからない未知なものに対しての恐怖による憶測と警戒心でひとくくりにされているとそう察しました。

たしかに、得体のしれない輩に人生めちゃくちゃにされたくなんてありませんもの。。。

しかし、心配しないでください。
信仰って良くも悪くも簡単じゃないですから!!

簡単だったら、もっと信徒数増えているだろうし、こんな、地味でなんかないはず。(国が違えば、台湾は国も認める善良な慈善活動団体であるので様々、国民性ゆえなのかという声もチラホラ)

自分だって初めから「これはすごい!素晴らしい」とか思って東京まで通いながらバイブルスタディを学んでいたわけではないです。
むしろ、おかしなところがないか?と疑いながら、不安と不信を懐に抱えながら通っていたような輩でありました。(ホント不遜な奴)

変におしつけてきたり、お金をとったり、強要してきたら即やめよう。断固、連絡を断とうと思っておりました。なぜなら、わたしは歩く人間不信。

そんな私が

実質を確認したところ、、お金はとられない。(むしろおごってもらうことがあった)のと、わからないことは分からないとはっきり言われるし、信じるかどうかは自分次第だと委ねられ、
そういうやり取りをしてくれる人たちがとても素敵だったか?というと、どちらかというと、安心できるそんな、人たち。

まだ社会経験も少ない自分から見てもえらく純粋で、善良で、こんなんで世の中でも生きていけるの?という感じの人たちでした。

学校という世の中でも、強者として君臨するのは人を傷つける言動をする人たちが多いと私は経験上思っていました。

だから、人にかかわるのが嫌になっていたし、死に場所は山の中がいいと思いながら自殺する方法を考えていて、
人畜無害そうで有害な自分の精神状態から、そう死ぬのが一番妥当であると思っていた
そんな私からすると、人生穏やかに明るく元気に生きている人たちってそれこそ異次元で。

しかし、そんな生き方は私にも起こりうるらしい。。。マジか?と、
確認と実習をしたくて私は東京と山梨を行き来し、いったん東京で一人暮らしやら教会の人と一緒にルームシェアしたり、そのうえで山梨に戻ってきても本当に働きかけてくれる神様の御働きを実感したり、人間的には絶対無理。
ということを、小さいことから大きいこともまでいろいろ体験して、現在に至るのです。

ゆえに、信仰ってそんなもの自分の身の上に起こるわけない。と思っていたときよりは、確かに少なからずは信仰というものがあるとは思います。

けれども、まったく行いが足りないので、本当に私に信仰はあるのか?と自問自答するような始末。

と言うわけで信仰とは一朝一夕では生じえないので、石橋叩いて渡りたい人は叩けるだけ叩いてもいいと思います。私も叩いて渡る派というか、叩きすぎて割ってしまうくらいのタイプです。それ故、生きていく勇気もなくなってました。

そんな私が
死ぬことを選らばずに、生きていけるようになったのは、経験が本当に大きい。そう思うのです。

会社だろうが、学校だろうが、その狭い世界だけではない。そういう感覚得られたことも良かった。(昨今、サードプレスを持とう!という話がありますがまさにそれ)

自分とは、なんなのか?
自分が必要とされないのでは?そういう混乱と焦り不安が信仰生活を始めるからと言ってすぐに解かれるわけでもないです。むしろ、勝手に人と比べて辛くなることもあったり、自分とは、違う立場による見解のコトバに傷つくこともあります。

ただ、そこではっきり言えることは
自分を絶対に肯定してくれる存在が神であり、
必要だ。と言って、死ぬなと引き留めてくれるのも神であり、
誰も助けてくれなくても、慰めてくれなくても、
見えなくても
見える空や太陽の光や、時には通りすがりのおばあちゃんを通して、
励ましてくれるのも神様である。
そして、まだ生きよう、やってみよう。
そういう気持ちになれるように(そうなれないときは休ませてもくれる)導いてくれる神様でもある。

ヒトの考えだと、お前はもういらない、意味がない。死んでしまえばいい。
そういう考えと結論しか至らないが、そうではない。
と、ずーーーーーーーーーーーッと根気強く語って説き続けてくれる神様。

自殺でなければニート、引きこもりになるしかないような私だったから言えることですが、

宗教団体うんぬんというより、人対人というくくりにおいて、どうであれ人生経験を積めるのは大きな機会であると経験して思うのと、
自分の足で立って生計を立てて社会の中で生きていくなかで、どんな場所、どんな人と出会っても、絶望しないで生きるチカラを得られるのは信仰から来る希望と、いまだ悟りきれてない神の愛それしかない。と、心から断言します。

こう言う私を弱くて愚かだと言われても、死ぬこと考えて生きてた若い頃よりもずっと楽しく感謝しながら生きてるゆえに馬耳東風です。

そんなわけで、勧誘されるかもと恐れなくても大丈夫。本人の意思によらなければ何事も成されないので、ご安心ください。