世界にあふれている「モノ」との戦い。

人生はあてのない旅のようだと、だれかが表現していたが

私は、人生は名前の無い戦いだと表現したい。

みんな何かと戦っている。

大きくなれば、いつかはわかる

いつかは自由になれるのかなと思っていたが

 

 

見えるものが多くなるほど、

出会う人が多くなるほど、

その名前のないモノとの戦いは、

年をとる分、複雑になっていった。

 

名前のない戦いは、疲弊がハンパない。

砂漠の中、オアシスがどこかにあるかも解らず放浪するかのごとく、

ここではないどこか、に自分の安息があるのではないか

そんな蜃気楼のような希望を懐きつつ、

名前のない戦いを日夜、繰り広げる。

あぁ、山月記の主人公はきっとこんな気持ちで虎になったんじゃなかろうか、

私は、虎にもなれそうにない。

どうせ生きたまま腐るなら、納豆ぐらいにはなりたいものだと思った時

名前の無い戦いに、勝利した存在に出会った。

勝利した存在は、勝利しただけあって

ホントの戦い方を教えてくれた。

 

憎しみや怒りや憤りこそが疲弊の原因であり

赦しとは

愛とは

希望とは何なのか

血と汗が乾かないまま語ってくれた。

 

世界に溢れている戦いを終わらせようと

自分を差し出した、その存在が

どんな勝利をしたのか

知れば知るほど、永遠が

遠くなく、

実際なんだなあと理解できるようになった。

 

 

戦いはまだ続いてる、

でも

戦いの終わらせ方を知ったから

疲れても

倒れても

また立ち上がれる。

ただ勝利者の手を取れば、良いのだから。

 

 

指導者が救いならば、ヤバマズイ。

父に「長く教会に通っているから何か役職とかあるのか?」と6年くらい昔に訊かれたことがあります。
全く無し。と事実を答えました(笑)

3年くらいで摂理の大学生ハナちゃんのように指導者をしている人もいるし、
また、1年未満で指導者したい~と目指す人たちもいます。

ただ、会社みたいな組織と完全に違うのは主の手足となる組織だから、『指導』の認識もちがうんです。
そのポイントで摂理内外で「偏見」が生じているかもな~と思うことがあります。

摂理を集団でとらえる人たちは、おそらく幹部が統制とってなんか指示とかやらせてんだろうなとか
思ったり、洗脳されて可哀そうとか思っているだろうなと。
しかし、このただでさえクリスチャンが少ない日本でそんなことしていて人が集まるワケがない。
本当に、落ち着いて考えてほしいとおもうのは私だけでしょうか・・・

多分、私の父のように組織を会社みたいなものでとらえると、年功序列とか、そう思うのかもしれないですね。
しかし、「人為的でない組織」なんて理解出来ないから、きっと洗脳という異次元な単語が登場するんだろうな・・・

まったくもって人為的な組織でないのです。
天とまず近いかどうかってこと。

天が育てたくて、任せる仕事もあれば
天がその人を使いたくて任せる仕事もあるし
結局は、天と一対一であることが基本だなぁと思います。

ちなみに、わたしは考えが本当に良くないので、使いたくても使えない人。
そう本当に、使われなくてよかった。私のせいで傷を受ける人がいたら大変。(というか、すでにいたらどうしよう・・・)

以前、「汚い考えがある」と端的に言われて、数年落ち込んでいたけれども
よくよくちゃんと考えてみたら、
確かにわたしにきれいな考えなんてもともとないや。
頑張っていなかったわけではないところでそういう言われ方したのですごい打撃を受けたけれども、
事実だしな。と。
そう気づいて、こういう端的な表現は
あまりにもアドバイスにもならないから気を付けようと思いました。

どのようにしたらきれいになるのか、直せるように教えてくれるならば感謝なご指導・アドバイス
しかし、ただ「汚い」とだけ宣告されるのは、どん底でズンドコです。
良かれと思っていってくれるならば、言われる側の気持ちを考えるべきなんだと、本当に勉強になりました。
大事なことを知ることが出来て良かったな~と感謝できるようになりました。

感謝できるようになった時に、
名医である「主」と天にすがってこそ「生きることができる」ことを、
わたしは知っているので、それを見越してそういう言い方をされたのかもしれない。。。。。と思えるようになりました。
最近。

そう、摂理で良かったなとしみじみ思うのは、
どん底みたいな時も、
絶対に天はいろんな意味で自分にとって必要なことを教えてくれている。
自分がより良くなるチャンスを掴めるようにして下さる天の法則・理致を教えてもらいつつ
実施訓練できるところです。

数年、落ち込んでいたこの一件を通して、
私も過去、このようなことしていたから悔い改めなさいと学びつつ
自分がもし指導者だったら、もっとひどいことをしていただろうなとわかってよかったです。
そして、自分のまがった考えがひどすぎてホントに天をどれだけ傷つけ悲しませてきたか、日々悔い改め中です。
悔改める分だけ、部屋が片付いてきれいになるように、
なんか変わっていく過程を生きています。

大切なのは、天と自分。
私がどれほど大事な存在なのか、それを教えて下さるのは神様しかいない。そう改めて思います。

「天は使命と年輪で人に接することはしない。
ただ愛で経緯どおりに接してあげる。
だから経緯があなたの冠であることを悟って、
毎瞬間、経緯を残しなさい。」

神様のメッセージ(みことば)を心を開いて受け止める瞬間から、
いろんなモノゴトや
人との関わりも天とのイキサツになるなぁって思いました。

こんなかんじで考えが天ともっと通じるように自分を大切に作ろうとしています。

そんな信仰生活です。

ゆえに、指導者はいるようでいないというか、結局主が頭であり、ほかは肢体の一部なのです。
平信徒のながーいつぶやきでした。