当たり前なんですけれど、愛を知ると辛くなく幸せになるのだとわかった話。

辛いと幸せは一つ違い。

その「一つ」は、なんなんだろうと思って、時折、思い出すたびに
これか?あれか?と思索し気が付いたら20年くらいたっていたのですが、

これだなと思いいたりました。

月並みですが「愛」だなと。

しかし、この愛とはいったい何なんでしょうね。と思ったことはありませんか?

昨今「愛されメイク」「愛されるマナー」なとなど雑誌で見かけることが多く、愛するより愛されたい!が勝っているのを目にしつつ、「愛する」について、さてどこで見聞きする機会があるか?というとマザーテレサの名言だとか、イエス様の説教などなど、キリスト教関連で多い気がします。がそもそも愛という単語、ことばを使わずにキリスト教以外の宗教も愛について説いていると思います。なので、宗教って生きる根本について教えるものという定義通りですね。

さて、話が戻りますがその「愛すること」をいかに自分がどのように行なうかどうか!?というと

今週の主日のメッセージの中でピンと来たところがありました。

「説教の、愛の説教をしたら、すぐに終わります。愛です。人間同士も、愛がなければすぐ仲違いになってしまいます、関心がなかったら遠くなります。異性の愛のことでだけではなく、関心を持つことが愛です。気を使ってあげることが愛だし、よくしてあげることが愛だし、優しく、よく話してあげることが愛です、また、あげることも愛です。」

なんと!職場でも家庭でも実践しやすーい☺️😊😲

というわけで、生活の端々でやってみました😃

一番の収穫は、職場でした。

ミスをした方が自責の念にとらわれて一つのミスから負のスパイラルに入ってしまうことが生じたのですが、これがじつは先々週から続いており・・・このようなとき、接し方をどうすればいいのだろうか・・・・と、↑教えてももらったことを思い出し考えながら接してみました。

ミスを自分を責めるためではなくて、次に生かせるようにしてみませんか。そして一緒に働く私がもっとよりよくすればいい部分もあるはずなので、気づいたこと思っていることシェアしましょう。と提案してから、次の日は心も動きもお互い楽だったので、愛は辛さを解いて新しい次元へとあげるすごいものだなと思いました。

愛とは不確かなものと思っていたとき、人生が辛い。そう思っていたなぁとしみじみ思い出しました。

愛を具体的に実践するチョンミョンソク牧師からわかりやすく教えてもらえるようになってからの今は、
自分が行ってみる分だけ、幸せをじんわり味わっているなと思います。

やらないより、やってみるその味。

たぶん、昔の私なら思ったとしても

実行はしない。

実行するのが難しい理由をあげ連ねて、

実行しないにとどまる。

しかし、人は良くも悪くも変わる。

とはよく言ったもので、実行して確認するようになってきてるのです。

その一つをご紹介すると…

子どもの貧困について、新聞やネットニュースなどで目にして胸が潰されるような思いがしていた昨今。

きっと、チョンミョンソク牧師ならなんかするだろうなあ。。。自分の交通費全部渡して助けたエピソードを思い出したりしつつ、さて私は何ができるだろうか?と思案し天に尋ねて思い浮かんだこと。

野菜をお裾分けしよう!と。

様々な理由から支援を必要としてる方々に寄り添う活動をされてる非営利団体の方を通してお届けすることをしてみました。

施すというよりは、ほんとお裾分け。

美味しいを共有できるってなんだか嬉しいものです。美味しいものを食べて元気が湧いてくる感覚は神様からのgiftだなあと。

ちょっとした一歩。

やらないよりは、やってみるほうが見えないけれども自分のなかに財産になるような確かなものを感じました。

天が下さった恵みを届ける役割を少し成せたかな?と自問自答に自分のぬるい信仰心レベルだとまあこんな感じだよねと恥ずかしさ否めませんが生活のなかで神様の愛とは?を考えるたけでなく、実行してみるその味をしめたので今後いっそう何かしらやってみようと思っております。