どうしたら栄えるのか?をやってみたら、リアルにどうなったか。

善と義を行なうときに、栄える。

そう朝の箴言で教えてもらったその日に、行なってみた。

一体なにが義で、善だろうか。

善とは、人が喜ぶこと、自分も善しとすることすることだろう。
義とは、神様が喜ぶことだろう。
今まで、私が教えてもらったことを振りかえり考えるとそう思った。

 

が、仕事納めのその日は、これ以上ないくらいに手が空いているため何をどうしたらいいだろうかと自問自答を繰り返しつつ、見まわしてみた。。。

今この場所で、
自分にも相手にも、
そして何よりも神様にも
「喜び」となることって一体。。。

自分を愛するように、隣人を愛しなさいとおっしゃったイエス様の一言を思い出すと
「美味しいお菓子でも買ってきて配るか?」と思ったのだが・・・神様にとってもそれは善とされることだろうか?と考えると
すべての人が「お菓子を食べることで喜ぶか?」というと否。であろう。。。と思うので、何か違うな・・・・と。

今日その日は、くしくも年の瀬、大みそかの前日。
私は契約期間満了で後にするその日であり2020年営業日の締めくくりのその日。

私にも善く、皆様にも善く、神様にも善しとされるのはそう、アレ。
アレしかない!
掃除だ!!!
と気づかせらえた事、感動感化の聖霊様に感謝。

というわけで、
埃をかぶったキャビネットやコード、
手垢で色が変わった受付に置かれた呼び出し電話の受話器、
共有机のゆえに誰も掃除してこなかったために手垢で薄黒くなった机たち、
皆さんのお昼を温め続けたことが庫内の激しい茶色のシミから感じられる電子レンジを順番に新たな年を迎えるにふさわしい姿にさせてあげて回った。

チョンミョンソク牧師先生が初来日した時に、羽田空港のトイレを素手でピカピカに掃除した話で教えてもらったことを思いながら、掃除してみた。

昔、シスターが「掃除一つも神様への感謝と対話でするのです。」と教えてくれたが
シスターのように自分の生活圏の中での掃除だけではなくて、チョンミョンソク牧師先生は訪れた場所何処に行っても神様のものだからピカピカにする。

もし、このように汚れた罪があったら、どうか赦してください。そう悔い改めのお祈りもしながら。。。

というわけで、私自身、今年振り返り直すべきことというか、悔い改めるべきこと、合理化しておざなりになっていること。
それらが、この汚れであり埃だとおもったり、またチョンミョンソク牧師先生がされてきたみたいに、この場所にいる皆さんが神様の願うより良い人生を生きることが出来るようにと祈ったしつつ掃除したところ・・・

 

「頼んでもいないのに、自ら掃除するってなかなか出来ないことだよほんとに」と、
庶務の方々から感謝されるのが、なんだかこそばゆく。

「善と義」をおこなえたかもしれないという手ごたえが感じられたことが何よりうれしかった。

業務の終わりが近づいたその時にふと
「あのね、これは雑談なんだけどね」と話しかけられた。
実は、庶務課は人手を必要としていて、私がもし希望するならば直接雇用で就業出来るかもしれないという話だった。

晴天の霹靂。

ひとまず、年明けに連絡するかもしれないですとお声掛け下さったことに心から感謝した🙏

「善と義を行なうならば、栄える」とはほんとにだなぁと。
神様の御言葉の威力のすさまじさ。
「栄える」か否かは私次第。

やっぱり、天とともに人生を生きることが出来る味が最高ッ!だと改めて思った。

一日を生きたら、何を得たのか振り返ってみよう。

今日は父のことを改めて嫌いだと思ってしまった。
手をちゃんと洗わないことはよろしくないといったところ「うるさい!」と逆切れ一蹴。
昔からそんななので、自然と避けるしかない心否めない。

父から昔「お前は何でそんな暗い顔なんだ」と責められるような問を投げかけられたことがあるがその原因はあなたゆえですと伝えたのは割と最近というか、摂理で信仰生活を経験しつつ、山梨に戻ってきてからだった。

正直な思いを告げるってけっこう心の労力を使うらしく、、、泣きたくもないのに涙が出てきて非常に後始末が悪い。。。
そんなことがまぁワンシーズンに1回はある。そのように、心の中にしまわれていた痛みを改めて取り出して整理整頓をするかのように家族とのあれこれを重ねて今がある。

重ねたからこそ、変化したものもあれば、
正直、もう無理じゃね?つーか無理だわ。と思う自分と家族の姿もある。

でも、神様は無理じゃない。
新しくなれる。
諦めるな最後までだと常に、本当に私が何度も無理だと思ったときになぜか毎回、「最後まで行おう」そうチョンミョンソク牧師を通してメッセージをもらうその不思議。。。

最後まで行い続けている方を通して説いて投げかけてくるそのメッセージは
嫌です無理ですとは言えない。
愛はあるのだ。
と認めるしかなかったその姿は、今なお変わらない。
その姿をみると私もやってみようとなんでだか、そう思えてくる。。。

そんなわけで、自分と家族のための祈りをもっと強烈にしつつ
私は一日の終わりに今日平和と愛を成せたのか?を問いかける。

いつも楽しく甲斐に満ちて生きているチョンミョンソク牧師から「一日の終わりに何を得たのか振り返ってみてください」と、そういわれたときにやはり、そのように振り返りをしながらよりよく生きるんだなと改めて思った。
日常の積み重ねを意識するのとしないのとでは、天と地の差。
自分の間違いもうやむやにしないで善し悪しを割くことが出来るのも本当に感謝。

今日は一つ、父の対処の仕方を一つ得た。
手をそんなに洗いたくなければ、せめてアルコール消毒を。と設置してみたところ、手を水にぬらすようになった。(洗うというよりは数秒ぬらしている感じ)一応このご時世の最中にやはり父も考えることがあったようだ。(まだ洗うというには、いい難い段階ではあるが)
こうしろと命令されているような感じだと反発したくなるというか、自分のやりたいようにやりたい。そういうことのようだ。
相手の想いを尊重しながらもお互いが善とするところを見つけそこへ誘導する技術を付けていきたいものだ。と思った。
蟻のような歩みでも日進月歩。
小さな振り返りから今まで選択できなかった行動をとる新しい自分へ少し変化する楽しみ得られた。