根本の問題をとおして誕生日おめでとうの因果が解かれた話。

私は存在していていいのだろうか?そんな思いに駆られることが多かった。
そのせいなのか、「神様が私を愛して創造された」ということを聴いても自分の話として受け取れられなかった。
そんな私がどうして信仰生活やら、教会の会員として存在しているのか?というと、真理だけでもかなり人生の多くの問題が解かれたからだ。
しかし、やはり愛を知らなければ、「愛がなければすべて空しい」と新約聖書にあるように、まさにそれ。
あんこが入っていないアンパンのような自分だなぁと、まがいもののような自分にまた申し訳なさ引きずって数十年。

それに気づいたというか、認めるようになったのは最近の「根本の問題に向き合う」というキーワードによる。
「なぜ自分は創造目的を実感できないのか」創造主に反する恐れ多くも事実、私が抱えるこの思い。
わたしという存在は、親に喜びよりも苦痛を与えてしまっているのではないか?と、幼少のころからの祖母と母、母と父という家族のやり取りで自分の存在の懐疑的な思いが生じたといえる。それに気づいてはいたけれども、まさかこんな年を取ってまでもそれがかなりの影響を与えているとは思いもしなかった。
親に辛さを与えるような存在が、まさか創造主に喜びがあるだろうか?私のなかにそんな考えが大きく自我の根底に横たわっていることに気づけたのは、私と同年代の夫婦が子供を愛しく大切に思いながら育てているインスタグラムを見た時だった。

「世界は美しい。それを子供に伝えたい。」と語っている彼女。わたしとは全く違う世界の見え方と感じ方をしているからこそ、喜んで結婚をし、子供を産んで日々育児家事の大変さで泣き笑いを明るく幸せに生きているのを感じた。
それをうらやましいと思うよりは、むしろそんな風に思えるのはなぜなのか?という疑問のほうがはるかにまさって大きかった。
明白なのは、私が存在してきた家族とは大きく違うからだろうなとただ漠然と、確実な事実を認めるだけだった。

今年の四月、ずっと日曜日の説教の流れの中で「矛盾の問題、根本的な問題」その部分が私に突き刺さった。
神様の愛、真理を教えてもらったのにどうして喜びが足りない?喜べない?その原因は自分にある。とわかりつつ、どうしたら喜べるようになるのか?どうしたらもっと幸せに感謝感激で生きることができるのか?そうありたいのに、そうでない自分を知っていながらただ惰性のように生きている。ちゃんとわかっていないならば、ちゃんとわかるようにしてくださいと直球で祈り続けた事の答えだと思った。

だから、本当にふとした瞬間にそれはそよ風に乗って季節の花の香りが届くように、その答えが私の心に届いた。
創造目的をイメージできなくても仕方ないんだ。

それは、自分で言い聞かせるというよりは、私の長い話を静かに最後まで聞いてくれたうえで大丈夫だよ。と、穏やかに抱きしめてくれるような感じだった。

そうか、私はずっと悲しかった。それを認めると、たぶんそうなった環境や対象を恨むしかない。寂しい、悲しい、辛いというコトバにしてしまうことでもっと悲しく辛くならないように、目をそらし続ける癖が無意識に生じていたのかもしれない。

 

小3のときの過呼吸で死ぬかと思ったときがあったことや、小6にしてすでに飛蚊症が強かった(ストレス性のものが考えられると最近分かった)のもぜーんぶ一人で対処していろいろ頑張っていた証で、そんな私をずーと見ていてくれた神様、創造主の視点があったことを感じたのだ。

喜べない理由をわたし以上に知っていたはずの神様に私は「こうだから、こうなので、私がもっと喜んで生きることが出来るように助けて下さい。」そう願い求めるようになった。
そうしたら、なぜか、本当に不思議だが笑顔で心が穏やかになった。
そういう心をくださったからだと思う。

祈りは対話。と教えてもらったが、ほんとうに言い得て妙だ。
正直にありのままを告げると、このように心の転換がある。
幾度となく、そうありがたい体験があったけれども、さらに更新をした5月のはじめだった。

「誕生日おめでとう」は慣例としてどうなんだろうか、と思って長かったのだが、神様の創造目的(人間が生まれて来た理由)を知ったうえで、生きて死んでいくすべての瞬間をその意味とリンクさせられるので、どっかのだれかに何と言われても確かに嬉しく生きるのを楽しめる。そう思う。

そんな自分をおめでたいと言われようが、「おめでとうの意味をちゃんと自分のものにしたいと思いませんか?」と問いかけて、相手の反応を見てみたい。

まさか離婚しない秘訣を知っているとは思わないでしょう。

ちまたでは熟年離婚が増えていると聞いてからだいぶたっているが、常態化しているのかもと感じるのは仕事でお話を伺った70代以上の方の中で4人の男性から「嫁さんが数年前に出て行ってしまった」という話を聞いたから。

晩年になってまさか独り身になるってそれをあけっぴろげに話すというのはいろいろ吹っ切れてしまったゆえの心境からなのかもしれないが、すでに珍しい話ではないからなのかもしれない。

過去、マダム世代の女性から家庭内別居を公言している方、出ていくための準備を虎視眈々というか着実に進めて成し遂げられた方の話も聞いたことがある。(いろんな職場でいろんな人に会っているなぁと改めて思う)

私の両親を見て思うのは、お互い自分の考え、意見を主張して、相手の思い、考えを受け取れないというか受け取らないというか、話をするのは無駄、どうせわからない。と、いうか、聴く耳持っていない!!と互いに言い合っている。のを還暦を迎えてからより見かけるようになったように思う。

対話にならないならば、もう一緒に生活する意味がない。到底無理だ。と見切りをつけて別れるのは仕方ない。こうして離婚に至るしかないのだろうなと、至極当然の流れをまざまざと見せていただきながら納得している。

だから、わたしはわざわざ結婚したいなんて思わない。そんな輩なのだが、どうしてか離婚をしない秘訣を知っている。
それは、信仰生活というものは神様と一緒に生きることだと教えてもらったからだ。
端的にこう表現すると、お前頭大丈夫か?というかんじになるが、具体的に表現すると自分の考えで物事をとらえずに、神様の視点、神様の考え方で見て、行なうそんなかんじ。神様の考え方というのは、単語でいうところの「真理」と「愛」、「善」「慈しみ」「深慮」「平和」「否定的ではない」そういった自分の中にはなかなか見つけにくいものだ。

自分の考えだったら、相手を状況を悪く考えるしかないのだが、神様の考えでとらえられるように祈り求めたり、聖書を通して教えても(いわゆる神様の御言葉)を思い出したり、とにかく自分のレベルではない考え方をもらって対峙し、状況を違った見方でとらえて行くと、乗り越えて行けたり、耐えられたり、そうやって確実に漸進しつつ成長していけるのだ。(しかし、それは簡単ではないことが前提ではある。)

肉体が生きているこの一生を通して、神様の考えに合うように自分をつくること。それはまるで結婚しているようなもの。そう教えてもらったが、たしかにそうだなぁと。自分の考えをちょっと譲るというか、少し横に置いて相手の心、考えを受け止めることができなければ、一緒にいることは、辛くなって出ていくしかない。

本当に、分かりやすい。自分の両親や、出会った人たちの人生の苦痛、苦労話を聞きつつ、一緒に生きる味と喜びについて、その例えはじつに絶妙だなぁと思うのだった。

きょうの信仰生活メモ( ..)φ
「神様とも、祈りという対話がないと、御言葉を聞いてもすごく誤解が出てくる。」