摂理が本物だと思う3つの理由。

 

1.変質なのか変化なのかは、自分次第であること。

御言葉を聴いて、その御言葉を考えて生活の中で何等か少しでも行なってみる時、
何かが変わる。
逆に、聴いたことを確認したり、考えても見なかったりすると何も変わらない。
神様は毎日次元を新しくする。宇宙が日々大きくなっているように。
人間も肉体は衰えていくとしても、
目に見えない世界に考えを置いて自分を作ることができる永遠な神様と共に生きる祝福。
これは、知れば知るほど、深く。
分からないことが分かるようになる分、楽しい。
チョンミョンソク先生がどうして、いつも喜んで感謝して生活されるのか。
それは真の喜びと感謝について知っているから、そう生きることができるのだと見ていて思う。

すべて御言葉で確認。祈って確認。行なって確認。
それをしなくなると自分の考えに閉じ込められる。
逆に、祈った分・御言葉を学んで行って確認した分、解かれるべきものが解かれる。
だから、変化する。
ゆえにいつも、自分次第。

 

 

2.個性が全く異なる人と、調和を成したこと。

自分とまったく正反対な個性の妹がいる。
その子が人生について深く考えるようになった時に摂理でバイブルスタディを学ぶことを勧めた。
自分と全く個性がちがうし、私が摂理で信仰生活をするようになった時に、「宗教にハマった」と否定的に見ていた彼女なので、人間的に考えたらむずかしいのだが人生について深く考えているようなので、
神様にゆだねて、提案をするように話してみたところ、摂理で学ぶようになり、そして信仰生活をするようになった。本当に人間には霊があるんだなと、妹をみながら思う。

彼女と私は個性と考えが全く逆なので、一つになることが至難の業なのだが
さまざまぶつかる問題の中で、私の考えを御言葉で取り除いて、神様の考え学んでそれを持って問題が解かれていくのを見て行く時、個性が調和されることを知った。

自分の考えで相手を図ってはだめだよとイエス様がおっしゃっていたがまさにそれに尽きる。。。
まだより完全な次元に至るためにお互いもがきだけれど。
神様の愛で、互いを認めあえる瞬間がとても幸せだなと思う。

 

 


3.数年前と今を比べると自分も摂理も、より理想的に次元を上げていること。

自分の今や、摂理の行事・文化芸術や摂理人の言動を見ると今の方がより理想的だなと思う。
どうして前より理想的なのか?それについて考えてみた。

上手くしたくても出来ない事。もっとこうしたいのに、それを成せない事。
いわゆる、もがき。
摂理人で、もがかない人はいないんじゃないだろうか。

みんなそれぞれの位置でもがきの努力の結果、変化して今があるんだなと思う。

完全に作ろう。
とおっしゃった御言葉は、どこから来るのか?
行なったことを通して教えてくださる方を思い出しているんじゃないかな。

誰もが出ていくことを願った場所、月明洞を
世界中から年間100万人が訪れる場所に作った実践力。

神様が喜ぶことを、人に何を言われても、濡れ衣着せられても、
神様の願われることを行なわれるチョンミョンソク先生。

言葉だけの理想ではなくて、日々行なったことをもって伝えられているその姿。

言葉に出来ない苦労や傷だらけになっている自尊心も
まったく微塵にも見せない笑顔で、真実な心と愛で行われているその姿。

今日もその姿を考えて、あともう少し、もう一度やってみようと思うんじゃないかな。

神様の愛は妄想でも虚像でもない。
神様と共に行なって日々なして行く、実体だということを見せてもらったから。

だから、昔と今だと今がより新しくなるしかない。
なぜならば、生きていらっしゃる神様と共に生きることを教えてもらったから。

私も新しく、みんなも新しくなる理由は
奇跡を実体化させた生き方をしている方を知ったからなんだなと思う。

道を伝える。

イエス様は
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」
ヨハネによる福音書 14章 6節

とおっしゃいました。
わたしは摂理に来る前に学校で聖書を読む機会が多かったので、
いくつか気になる箇所があり、常々これはどういう意味なのかすごい気になる。。。
はっきりと教えて欲しいです。イエス様に会いたいですとお祈りしたりしていた時がありました。

チョンミョンソク先生は「イエス様の説教を直接聴きたいです!!!」とお祈りされたことがあったそうです。
そのお祈りに答えとして
「あなたの声を通して私があなたに伝えるから声を出して聖書を読みなさい」と言われたようにかんじて、
イエス様がどのように説教をされたのか考えながら、聖書を声に出して読んだそうです。
その時に、イエス様の心情が伝わってきたそうです。

心情。
イエス様は確かに2000年前に生きて伝えてくださっていた、その心情。
イエス様がどんな気持ちでどんな心で神様の愛を伝えていらっしゃったのか、それを先生は受け取って、
あなたもそのように天の心情を知りなさいと私に教えてくれました。

聖書は、ただ読むと眠くなります。
分かるようでわからない、なぞなぞの様な話にみえるところあります。
でも、意味と理由があって旧約聖書四千年、新約聖書二千年、合計六千年経て先人たちが命を懸けて
殺されることもありながら、自分の肉体の命がなくなっても、残そうとした書物。

先生は、聖書は神様からのラブレターだと表現されました。
その愛を知るまでは、わからな過ぎて、頭がいたくなる聖書は埋めてしまえと埋めちゃったときもあったそうですが。
先生は、わかるまで祈り続けたし、わかったことにとどまらないで
誤解されたり、悪口を言われたり、濡れ衣着せられたとしても、
みんながその愛を知ることが出来るように行ないながら、伝えてくださってきました。

だから、人生に答えも意味も希望も見いだせなかった私が生まれ変わったように人生を生きています。
わたしは直接先生に会って聖書を学んだり説教を聴いた世代の人ではありませんが、
寝る事、食べる事を惜しんで先生がインターネットを通して全世界に向けて御言葉:神様の愛を伝えている姿をみました。
経緯はそれぞれですが、先生通して神様の愛を知るようになった人は摂理に今いる人達全員だと言って過言ではないと思います。

日本に今キリスト教で神様とイエス様を信じる人たちの人口は日本の人口の約1%だと言われています。
その世代の割合としても若い人が多いかというと、残念ながら多くないです。
でも、キリスト教福音宣教会-摂理の会員:メンバー(信者って私たちの中ではあまり使わない単語なので、)は
大学生・青年部若い年齢層の社会人が多いだけでなくて、お子さんを育てている若いお母さんから、お子さんを育て上げた熟練したお母さん世代まで神様を知って神様と共に生きる喜びを持って教会に集って一緒に歌ったりスポーツしたりして神様に感謝捧げています。

それが宗教に狂っているんじゃない?と思う方は、そういう視点でスルーされると思いますが、
若い人たちが虚しくない喜びを得る事が悪い事でしょうか?
子供たちの未来や自分自身の人生で悩みが多いお母さんに癒しと力を受ける事ができることは、だまされていることでしょうか?
肉体の終わりを感じる年齢に近づく中で、自分の永遠の喜びを手に入れることが、気の迷いでしょうか?
摂理がよくわからない団体として不安に思っていらっしゃる方がいるとしても、
摂理で信仰生活をする人達のことを悪く言うのは、良心的に見てどうなのでしょうか。
私たちが誰かを悲しませる事をしているでしょうか。
苦しめるような行ないをしたでしょうか。
より神様を愛そうとして、その神様の愛で隣人を愛そうと努力する私たちは愚かな人達なのでしょうか。

問題だらけの自分に差し伸べてくださった神様の手をどうつかむかは自由意思。
強制はまったくないのが摂理です。なぜならば、神様が自由意思を人間に与えたから。

摂理でチョンミョンソク先生が常におっしゃることは、神様を愛しなさい。
先生から私が学んだことの一つは真実に祈る事。神様を騙すような祈りをするな。ということ。

壺売ってこいとか、いくら出したら救われるとか、献金しないと地獄に落ちるから献金しろとか、そういう話全くないです。

いたって、平凡というか、人生の中で誰もが感じたり考えたりすることに、真実に向き合って答えてくれる礼拝・メッセージ。
イエス様がなぜ【命の道】なのかを、わかるように教えてくださる先生。

それが、若い人から人生が成熟した世代の方々までが摂理に集う理由だとわたしは思います。

つまり、伝道=勧誘では「ない」ということです。

道を、選択するのはその人の自由。そういうことです。

できたら、より良い道を選んでいきたい。
というのは各個人の当たり前の願い・望みだと思いますが、
自分が良いものを知ったら、隣の人や、友達や家族に教えたくなるそういう心理は誰にでもあるんではないでしょうか。
企業の広告より、クチコミの方が信憑性があるのはそういうことではないでしょうか。
というわけで、クチコミ的なブログを続けます笑