自分を殺すことについて考察。

大変になってくると自分中心になるクセがまだあるな~と
仕事を通して思う。。。今回は、その自分中心による息切れを打開したお話し。

画面に書いてある文章の通りの意味合いなのに、これはどういう意味なのか?と繰り返し訊いてこられ
それに対して、同じ回答をしつつ、結論、問題ないことをお伝えしているのに
「で、どうしたらいんですか?」と訊かれるので、再度同じ文章を読み上げてみたところ
「怒っているんですか?」と言われる事態が起こった。

 

わたくし側の思いとしては・・・

・私に「で、どうしたらいいんですか?」と訊いてこられる事に理解が出来ず戸惑う気持が50%。
・画面に書かれている文章をどうして考えないのだろうか?という疑問が15%。
・そもそも、お客さんの話も画面の文章も私が間違った捉え方をしているのだろうか?15%。
・疲れたどうしてわかってくれないのだろうかイライラ・・・20%。

という気持ちで同じ文章を繰り返し読んだのが、
やはり、私の心に愛がないため、そのように受け取られるに至ったのだろうな~と。。。
自分の考えとは違う、考え方・判断をする方に対して
私まだ、ちゃんと対応できていないんだな~と痛感。
何とか、終わって電話を切ってから、どうしたらよかったのだろうか・・・・と考えてしまった。

自分の考えだと、理解が出来ないままで、解決できず。。。
なので、
イエス様の願う生き方をしようと常に努力されているチョンミョンソク先生を思い出した。
一言、思い浮んできた。

それは   「自分を殺すこと」

コリント人への第一の手紙/ 15章 31節
兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、
わたしは日々、死んでいるのである。

チョンミョンソク先生は同じことを丁寧に何度も教えてくれる。
それは大切なことだからだ。
教えてもらう方が、これ前も聴いたけれどと思うとしても、ちゃんとわかる(自分で、みずから行える)まで繰り返して教えてくれる。どうして、繰り返し同じ話をいつも教えられるんだろう。嫌にならないのかな?と思うことがあった。
もしかして、実際は、そう思うこともあるけれど、徹底的に自分の考えを殺していらっしゃるんではないだろうか?

そして、自分の考えを殺そうと思って、自分を省みた時、

自分で考えるべきことを考えないで、責任を人におしつけるような人にわたしはなりたくない。
という自分の考えが根底にあることに気が付いた。

判断は、自己責任、大人として、自分で考えて判断するのは基本ではないか?人に訊くなよ。
って私は思ってしまっていたのだ。

お客さんはそういうスタイルで生きて来られているだけで、
自分が願う方向へ導いて下さいよと、丸投げしているだけ。
考えないというか、ただ、「善きに計らえ」と、言っているだけ。
わたしは、相手の問いかけ方やその問う理由が理解しかねると自分の考えで
お客さんの願う「導いて下さい」を無視してしまう行動をしていたが分かった。

この記事を読んでくださっている人は、当たり前なことじゃんと、驚くかもしれないけれど。
私はコミュニケーション不全な家族関係で育ったため、こういう仕事をしながら人との対話とか学ばせてもらっているのであしからず。

自分の考えだと、理解できず、お客さんとの平行線のやりとりに、疲弊し息切れしてしまう展開だが
自分の考えを殺してみた時に、
本来の自分のすべきことがやっぱり見えてきた。

こういうことなのか・・・と。
このことを思い出して、神様の願いを成すことができるようにしたいなと
思った。

自分を殺すって、言葉はどぎついけれど、やってみると、
相手を否定するような苦しさというか自分がまるで正しいかのような傲慢さがなくなって自由なかんじになる。
神様は、愛と平和だから。
その方と好みが合う自分に作りたい。
先生が見せて下さった姿をおもいかえしながら、明日の仕事治めをより良く結びたいと思うのであった。

あらわになりわかる。

昨日、ぐぉぉおおお~こぉれでもかぁ~と、ちぐはぐなやり取りをしたお客さんが多くて・・・

これは、悟れ。という啓示ですよね・・・・(-“-;)

と思っていたところ、今朝の箴言。

<自分がはっきり知っている事物や、万物や、平素よく通じるもの>に繋げて、「答え」をくださる。

キリスト教福音宣教会-摂理 明け方の箴言より

ちぐはぐなやり取りをちょっとご紹介すると・・・

CASE1.
「印刷できひんねん!元に戻ってるねん!!、さっきおしえてもろたけれど、もどっってんねん!!!」
「今どちらの画面を開かれていますか?」
「だからもどってんねん!」
(^_^;)
「画面の状態を分からないとご案内出来ないのですが・・・・(^_^;)」
「お前、ちゃんと案内できないやろ、同じこと繰り返しおって、さっきの人に変われ。」
「変わるとしても、状況が分からないと難しいので、もう少し教えていただけますか?」
「さっきから話してる!!」
ガックリしつつ・・・天を仰いで数秒助けを求めたら劇的に、操作指示を聞いてくれるようになり終わりました。。

 

CASE2.
「扶養親族の名前を消したのに、別の画面には名前がのこっているんです。これは?」
「かしこまりました。状態を確認したいので、~を開いてもらえますか?そちらの画面の左上の虫眼鏡のアイコンを押していただけますか?」
「名前を消したのに、残っていたんです。」
「はい。それを確認していくため、アイコンを押していただけますか?」
「え?どこの画面?」
ガックリしつつ、開く画面を最初からもう一度。。。

 

CASE3.
「別途現金で還付徴収をやり取りする場合、給与のどこに入力をしたらいいですか?」
「(・・・給与は銀行振り込みだから入力する必要がないため)別途現金の設定をしていただいているのをご一緒に確認させて頂きましたので、給与入力する必要がないご状況です。」
「え、さっき問い合わせをしたときに、出た人に来年の給与に入力するように言われたので、どこかに入力する必要があるのかなって思ったんですが・・・」
「別途現金でやりとりされるんですよね?」
「はい。」
「なので、入力しなくても大丈夫なのですが・・・」
「でも、入力するようにいわれたんです先ほどの対応された方に・・」
「しかし、お客様は、別途現金で行なわれるとのことですよね?」
「そうです。」
「それでは、入力不要なのですが・・」
「え、でも。入力しないと、金額が・・・・」
別途現金という単語自体が答え。なのですが・・・・
聖霊様~私の考えを取り除いて下さい~強く言ってしまいそうです~
(馬鹿にしている言い方に聞こえるような表現で傷つけてしまった失敗が過去あり;)
分かっていただける表現ができるように、うまく表現することが出来るようにして下さい~と天にヘルプをだしました。
そうしたら、
入力をしないといけないという思いこみがおありなのだという事を踏まえつつ、対処しなさいと。そういうインスピレーションをもらいました。

入力をしなければならないという必要性を与えてしまう説明がこちら側の対応にあったようで、
混乱をまねいたことをまず謝罪。
「銀行振り込みやり取りをしたい場合は来年の給与でやり取りをするのですが、そうではないならばこのままで何もする必要がないです。」
とお伝え。ようやく終話。

 

これと似たようなケースがあと6~7個あり、、
どのCASEそれぞれ核が同じで
「答えをちゃんと聴こうとしていない。」
「思い込みと自分の考え・感情が強い」

という2点。

あ~~~~、私がこのように天に接しているんだな~涙

と痛感しました。
そして、朝祈っていた事を思い出しました。
「わたしが今実践すべきこと実践することができるように悟らせてください。」
「悔い改めがちゃんとできるように導いて下さい。」
まさに、的確に状況通して教えて下さいました。
2016年ラストスパート&2017年スタートダッシュ。感謝で悔改めに励みます。

<人間>はいつも「問題」だ。その<答え>は「神様」でいらっしゃる。

キリスト教福音宣教会-摂理 明け方の箴言より

はげしくアーメンです。