何でもない自分が、どれほど大事なのかを感じた説教。

わたしは存在していても良いのだろうかと
居たたまれなくなる心がMAXになる都度、献血に行っていた過去。
血管が太く、血液濃度?も濃いという事で「献血向きネあなた!」とお墨付きをいただき、献血の常連者になり
腕に針の穴の跡が出来るほどになっていたそんな自分。。。

「必要な存在」と思えるのはなかなか難しくかつ申し訳なく、神様を認め信じるようになっても
自分の価値を認められない自分の考えに苦しんでいた無駄な考え貧乏な自分に
「自分の存在の必要性」がしみこむように染み渡ったのが
「神経」についての説教だった。

信徒は神経のような存在であり
指導者は、心と考えのような存在だと説いてくださったその説教。

ただ、あなたは大切な人なんだよと言われてもどのように?というのが分からなかった私。

「神経」について先週の主日礼拝から水曜礼拝で丁寧に神経の重要性を解いて下さりながら、
今週の主日礼拝の説教で
「実はあなた自身が神経だったんだよ!」と言われて、ジーンとしました。
そんなに大切だったんだなと。

「<団体>を治めるとか<国家>を治める時、従う人達を厳しく治めるからと言ってよく治められるのではありません。<導く指導者>は≪心と考え≫です。<従う人達>は≪神経≫なので鋭敏です。」

「神経は肉体世界で、心考えは精神世界です。
肉と神経は直接身を持って味わい、感じるけれども、心は肉ではないので直接感じることはできません。
先ず、肉が身を持って味わい、神経が身を持って味わったら、その時にはじめてその反応で心と考えが感じ、分かるようになります。」

2017年12月3日「神経を鋭利にし、心で治めなさい」より引用

 

チョンミョンソク先生の説教は
あいまいさがまったくなく
何より、小難しい表現がいっさい無い。
わかり易く文章で伝えることはすごく難しいのに、わかり易い。

指導者と従う人の位置と役割について、これ以上ないくらい明確に
そして、どちらも必要なんだという事が的確にわかるように教えて下さり感服の至り。

大きな啓示の御言葉だと銘打たれていたその通りだと
読み返すたびに思う日々。

山梨弁にあらず、甲州弁なり。

ときどき、県外の方に「やまなし弁」と言われるのですが
NO!
と思うのは山梨県民皆だと思います。

きょうは山梨県民が標準語だと思ってしまっていて
県外の人と交流する中で「え?これ方言だったの?」と県民がおどろく甲州弁あるあるをご紹介。

①持ちに行く。

例文:あ、忘れ物しちゃった。持ちに行ってくるね。

「取りに行く」というのが標準語ですが、その言い回しなぜか覚えづらい・・・。

 

②かじる。

例文:蚊に刺されちゃった。かじりすぎないように気を付けてね。

「かきむしる」が「かじる」なんですね。
「かきむしる」=「かじる」の語感がぴったりじゃんねー!!
といって、標準語は生ぬるくて心に合わないと学生の頃、言い合っていたなぁ。

この2つは本当に気づかないで使うので、
もし聞いた場合は、「甲州弁ですよ、それ」と言ってあげて下さい。