ぶっちゃけが極まると何が起こるか。

教会合宿に行ってきました。

約3年ぶりの合宿は、長老や牧会者のぶっちゃけから互いが思っていること、感じていた問題点を率直に向き合える機会になったので非常に良かったと思います。

「自分って特にいてもいなくても同じ?」って思う瞬間があったと言う話をある教役者の方がおっしゃっていて、なんと!わたしも10数年同じことたびたび思っていましたよ!と意外な発見をしました。
結局、どんな立場だとしても考えによる患難が大きいのだなと思いました。

自分の救い・自分の喜びとは一体何なんだろうね。
その根本について顧みては「そうだ!」と思い直すこと年に数回ほど私もあると思います。

そして、アサーティブに話すってイイなと思いましたあらためて。
自分が感じていることを否定したり押さえこんだりせずに、表現することってだいじだなと。

聖書に「キリストが頭であり私たちは手足だ」とあり、手が足の役割出来ないように、各自それぞれが非常に大事な一部なんだということ説かれているあの聖句を思い出す合宿でした。

自分が出来ることからやってみよう。
より良くなることって、自分からはじまる。
そう思った合宿でした。

ステキなアラフィフになるには。

最近、というか今年、いろいろな縁で50歳前後のお姉さん(いわゆるアラフィフ)と話す機会があります。
おしごと、結婚、子育て、さまざまな経験を経てまた自分の人生をあたらしくどうしようか?と思っている方々のハナシの中で、印象的だったのは「自分の良くないところを直せるように言ってくれるってありがたい!」そういう思いを持っていらっしゃるところでした。

「この年になると、良くないところがあっても、普通に流されんのよね。直すようにハッキリ言ってくれるのはほんとありがたい。」
摂理の教会のメンバーではないです。

今週もまた別の場所で、また別の方が「自分の心の汚い所とか、はっきり教えてほしい」と仰っているアラフィフの方に会いました。
お二人に共通しているのは、自分の持っている力をもっと出し切りたい!と思っているところです。

ふと、メンバーのお母さんがここで聖書学んでスッキリした!残りの人生不安もなくなったワ。とおっしゃっていたことが思い出されて、
点と点がつながる感じがしました。

正直、自分の良くないところ(いわゆる粗アラ)と向き合うのは、しんどいこともあります。がしかし、どうしたいのか?という自分の意思がはっきりしているならば、汚くなるよりは、ずっときれいになるはずです。

自分の良くないところを直視することに座り込みたくなる思いがよぎりそうなところがあったのですが、人生の先輩たちのステキコメントから「どうせ生きるなら、よりよく生きたい!」初心に立ち返るよう、背中を押してもらったかんじです。

やはり人と人の出会いって神様の計らないだなぁ😊