ステキなアラフィフになるには。

最近、というか今年、いろいろな縁で50歳前後のお姉さん(いわゆるアラフィフ)と話す機会があります。
おしごと、結婚、子育て、さまざまな経験を経てまた自分の人生をあたらしくどうしようか?と思っている方々のハナシの中で、印象的だったのは「自分の良くないところを直せるように言ってくれるってありがたい!」そういう思いを持っていらっしゃるところでした。

「この年になると、良くないところがあっても、普通に流されんのよね。直すようにハッキリ言ってくれるのはほんとありがたい。」
摂理の教会のメンバーではないです。

今週もまた別の場所で、また別の方が「自分の心の汚い所とか、はっきり教えてほしい」と仰っているアラフィフの方に会いました。
お二人に共通しているのは、自分の持っている力をもっと出し切りたい!と思っているところです。

ふと、メンバーのお母さんがここで聖書学んでスッキリした!残りの人生不安もなくなったワ。とおっしゃっていたことが思い出されて、
点と点がつながる感じがしました。

正直、自分の良くないところ(いわゆる粗アラ)と向き合うのは、しんどいこともあります。がしかし、どうしたいのか?という自分の意思がはっきりしているならば、汚くなるよりは、ずっときれいになるはずです。

自分の良くないところを直視することに座り込みたくなる思いがよぎりそうなところがあったのですが、人生の先輩たちのステキコメントから「どうせ生きるなら、よりよく生きたい!」初心に立ち返るよう、背中を押してもらったかんじです。

やはり人と人の出会いって神様の計らないだなぁ😊

憎しみと愛はどちらが強いのか?

家族を思う時、そんなことを考えることがありました。

今もまだ解決できていない部分があるとしても、しかし昔と比べて、笑えることが出来るようになったのは、「かなり、すごいことだ!」と過去の私が言っている気がします。

生んでもらった恩、育ててもらった恩があっても素直に感謝できなかったヒドイ時期が私にはありました。
結局、長い時間かけて色々なことが整理されてきて、感謝出来るようになってきました。

最近思うことは、
私が年を取った分、両親もやはり年を取ったわけで、
いつかは介護する身、介護される身になるのかもしれないなぁ。
今日こうやって何気なく過ごしたことが、後では奇跡みたいに思う時が来るかもしれないんだなぁ。

カゲロウのような、セミのような一生が迫ってくる時を感じました。

人生は、一瞬の時が集まっているんだな。そう思うのと同時に、むなしさよりは平安さがあることに気づきました。

いつかはなくなる肉体。人生って何のためにあるのか?を完全に教えてもらったからだなと改めて思いました。

両親のことも、自分のことも、神様はまるごと大事に想って下さっているその大きな懐を感じて、感謝が沸いてきます。

根本は愛。その神様の愛について、明日の礼拝でもまた知れることがホントに幸せだ。そう噛み締めました。