父が誕生日で感慨深い。

父の誕生日をささやかにお祝いをしたんですが、とても可愛らしく喜んでいました。

ほんとうに大したことがない物でも、喜んでもらえてなんだか、こそばゆかったです。

昔、父と2年間全く話さなかったときがあります。
色々なことがかさなってそうなったんですが、いつからまた話すようになったかというと、私がキリスト教福音宣教会(摂理)に通うようになったとき、心配しているようだったので、私から話をするようになりました。

教会行事、クリスマス礼拝やスキー合宿にも誘って教会のメンバーと自然に交流する中で「いい人たちにお世話になっている」という認識を持ったみたいで畑の収穫があるごとに「教会の皆さんに渡してくれ」と持たせてくれます。

父とのわだかまりが色々と解けて行くようになっったのと、私の信仰生活が始まったのは同時だったかも。。。と父の誕生日に振り返りつつ

そろそろクリスマスイベントに誘ってみようと思うのでした。

ぶっちゃけが極まると何が起こるか。

教会合宿に行ってきました。

約3年ぶりの合宿は、長老や牧会者のぶっちゃけから互いが思っていること、感じていた問題点を率直に向き合える機会になったので非常に良かったと思います。

「自分って特にいてもいなくても同じ?」って思う瞬間があったと言う話をある教役者の方がおっしゃっていて、なんと!わたしも10数年同じことたびたび思っていましたよ!と意外な発見をしました。
結局、どんな立場だとしても考えによる患難が大きいのだなと思いました。

自分の救い・自分の喜びとは一体何なんだろうね。
その根本について顧みては「そうだ!」と思い直すこと年に数回ほど私もあると思います。

そして、アサーティブに話すってイイなと思いましたあらためて。
自分が感じていることを否定したり押さえこんだりせずに、表現することってだいじだなと。

聖書に「キリストが頭であり私たちは手足だ」とあり、手が足の役割出来ないように、各自それぞれが非常に大事な一部なんだということ説かれているあの聖句を思い出す合宿でした。

自分が出来ることからやってみよう。
より良くなることって、自分からはじまる。
そう思った合宿でした。