「種を蒔く通りに得る」とは。

名前が素敵な「借金なし大豆」を手に入れたので、プロの農家さんに蒔き時を教えていただき
去年試しに蒔いてみましたところ・・・どうなったかといいますと・・・・

36粒蒔いて芽が出て苗までになったのは12個で、

最終的にその12の苗たちから大体380粒ほどの次世代が誕生しました。

蒔いて芽が出たのは三分の一だった。けれども、実を結んだその結果を元と比べて考えるならば
ほぼ10倍以上になりました。
正直、三分の一しか芽が出なかったときになんだか気落ちてしてしまい、放任で植えたままにしていたのですが
最後までみたら、成功だったので
非っ常~に感慨深いです。。。

これは私に向けて悟れというメッセージではなかろうか。と思ったところ・・・

人生もきっとこうなんだ。

上手くいかないようでいて、最後まで
すべきことをしたら倍以上になる。
だから、あきらめるな。

そういうメッセージを万物(大豆)からもらえました。

あとは、時に合わせてこそ。

 

おととし、父が大豆を蒔いたけれど虫に食いつくされてしまい枯れてしまったという経験を目の当たりにしたので、大豆は難しい。そう思っていました。
しかし、蒔く時期をちゃんとつかめばそこまでひどい被害は無農薬だとしても生じないよ。とプロの方々からお話を聞く機会があり・・・半信半疑ながら蒔いてみたところ、まさに「時」が重要。
(後日、植物学的な講座で知ったのですが種それぞれに発芽する時期(温度・光・水)のプログラムがあり、それがそろってこそ発芽と生育が進むそうです。つまり時期がずれると芽が出ても実らない。(また種によっては刺激が必要なこともあるそうな。傷がついてこそ発芽するとか、焼かれてこそ発芽するとか)種という命にも個性と計画(プログラム)があることに命それぞれに意味と価値があるって尊いなあと思ったり。。。。)

時に合わせると、虫にも負けず(蒔く時期が早いと、虫に歯を食い尽くされる)
天の恵みである雨と日差しが適度だったからこそ、実りました。

天気は人間の力では、どうにもできないから蒔いた後に雨を降らしてくださる神様の偉大な恵みの雨の威力を植物たちの勢いのある生育をみて本当に感嘆するしかないです。

私はただ蒔いただけというのがシンプルなだけに、時に合わせること。その重さを感じました。
私の責任分担は本当に10%で、あとの90%は天であることが身に沁みました。

よくチョンミョンソク牧師が「最後まで」とおっしゃるのですが
「最後まで」の「最後」は成功・成就なんだな。
それは自分の責任分担と、神様の助けが合わさってこそだよと教えてもらいましたが、なるほど。と思いました。

自分の成長もきっとそう。
今日はうまくできなくて、悔しかったこと。悲しかったこと。辛かったことも。
あきらめなければ
すべきことをするならば、それらは肥やしとなって過去とは違う、新しい自分を作る。

自分の不甲斐なさを教会でも社会でも感じるときに落ち込むこと、やる気なくすこと今でも普通にありますが
それでもそこで座り込み続けることがないのは一貫して教えてくださったことがこうして生活の中で確認しつつ新しい自分を作る糧をだとかみしめるからです。

そして、何より目に見えないけれども確かに存在されて呼べば答えるとおっしゃったとおりに
働かれる神様が万物や人を通して、そして主日礼拝のメッセージを通して必ず答えてくださるからです。

今週は「貴重に思ってこそ、神様は貴重なものあたえてくださる」とおっしゃっていたのですが、

貴重なものとは、神様の御言葉(真理と愛)だとしみじみ心から認めるしかないです。
御言葉という種を自分の考えに蒔くと新しい自分になるべく、自分の限界を超えていく力を生活の中でもらえるからです。

自分と人生は問題だらけだけれど、その問題の答えである御言葉(真理と愛)を考えて生きるときに自然と、人生・生活が挑戦になっていって、さまざまな事件も困難も問題があったとしてもそれは新しい自分を生む過程と見えて来て、不安よりは確かに助けてくださる神様の御働きがどこからどのように起こるのか、また教えてくださったことをどう使って生きるときに解決が見られるのかわくわく楽しみになるので、価値はお金に換算できません。
明日の礼拝のメッセージ、どんな種が蒔かれるのだろうかと、すごく楽しみかつ良い緊張感と期待でいっぱいです。

コロナで不仲で思い出す過去と今の交差の中で。

やまなしもご多分に漏れず、外出自粛中な今日の頃です

がしかし、

そんな中でも、母は趣味の社交ダンスの練習に通っているのです。(マンツーマンレッスンだそうですが。。。)

毎朝、毎晩、町内放送で「不要不急の外出は~」と呼びかけられているのにもかかわらず。。。。
母にとって社交ダンスの練習は「必要早急」なのだなぁ・・・・と心身共に今は家庭内ソーシャルディスタンスを2週間以上実行中です。

もし、母がコロナに罹患した場合は、お互いの職場にも影響が出るだけでなく、村八分もどきの悪意を受けるのを改めて知ったので(3月に発症した方が悪質な嫌がらせ等を受けたそう)そういうことも起こりうるんだよ!お母さんッ今の時期だけお休みするのはいかがかと申しましたが「今までのように毎日ではなく、週3でやりたい」とのこと。つまりは、個人レッスンを続けるそうな。。。

どんなリスクがあり、行動を検討することの必要性について真摯に伝えても、
まったくもって成立しないやり取りに、久々にほんの軽い絶望を味わいました。

そして、その昔
怒鳴りあい、罵りあいの家庭内戦争を思い出しました。
家族って辛いなぁ今すぐここから消えて居なくなりたいと思ったこと。

思い出し始めると、
よろしくない負の感情が流れだし
暗澹たる心持になる中、
思い出されたのは「どんな時にも感謝と愛を」のチョンミョンソク牧師でした。

私が自分の心の闇と傷に向き合うことが生じるたびに、「ちょっと待て」と変な方向へ行こうとする私の肩をつかんでくれる存在がチョンミョンソク牧師です。

憎しみと憤りではないものを選ぶこともできるんだよと。

その人生から教えてもらったからです。

ご家族にもご近所の方々からも、理解されず、みくびられ、食べることも難しい、冬に夏服しかなかったようなその当時、どうされたのか?というと…

心に生じた真っ黒な闇にとらわれるのではなく、
天地万物を作った神様に命をかけて誠実に答えを求め続けたその半生。

 


神様の真理を実践しながら説いてくださっているチョンミョンソク牧師のその人生が、
より良いものを選ぶんだと、私を静かに見つめてくるのです。

 

そして、促されるように

神様に今の正直な気持ちをありのままを向けるならば


それは悲しいね。辛いね。
となんだか、ちゃんと受け止めてもらえる感覚が生じるのがほんと不思議なのです。

祈るって、ただ心をありのままに告げることからなんだなぁと
そのたびに再確認。

冬山で全身凍傷になりながら祈り続けて
聖書を何千読しながら、イエス様の行ったことを同じように実践しようともがいて
神様の愛をイエス様の十字架の意味を知っている方の存在って、
私の人生にどれだけ大きいプレゼントなのか
改めて実感が再び湧くのでした。