手がヤバイことになりましたが、プライスレスなこと悟りました。

やってみてこそ、、わかることが、ある。
と考えるだけであまり行動に移さないタイプの私には、そういうことが多々ある。

たとえば、草刈り。

危ないからという理由で草刈りはさせてもらったことがなかった。意外にも箱入り娘な扱いを受けていたため、ガチな草刈りを初めて去年の夏、体験した。(きっかけは「万物を貴重に扱いなさい」という主日礼拝の内容から畑に向きあい挑戦するに至った)

鎌で草刈りする方法、草刈り機で刈っていく方法と。
本当にどちらも、いい運動だった。

刃の向きに気を付けて刈らないと、自分を切ってしまいかねない危うさと隣り合わせなのが鎌。

草の種類や太さで回転数を調節しつつ、薙ぎ払い方をうまくしないと切れなくて絡まってしまうのが草刈り機。
(草刈り機は10キロもないと思うが、最初は慣れなくてよろけながら背負っていた。腕力背筋力ついてからは軽く感じられて、筋肉って年とってもつくって本当だと思った)

どちらにも共通していることそれは、
「力」じゃないってこと。

それがわかるまで、不要な力を入れて変な筋肉痛になってしまった。。。

力を入れるから切れるのではなくて、チョンミョンソク牧師が説教の中で言っていた草刈りは「角度」
ほんとそれだった。

角度さえ合っていれば、そこまで力を入れることなくたやすく草を刈れる。

角度がわかるまで、要領の悪い私は変な力加減で異様な疲れが生じて、時間と結果が見合わなくて呆然としたものだった。
どうしたら時間も体力もなくなる前に作業を終えられるのか?自分の出来なさ加減に愕然とするとともに悔しさ汗とともに目に染みた。

渾身の力で草を刈ったため、手が痛くなり、作業の後もしびれて震えてしまう癖がついてしまって、
これはまずい、普通の生活動作がしづらいだけでなく、なにかの中毒患者と思われるかもと焦った。

時間と体力の限界との闘いの中、
草を刈る角度って、いったいどの角度ですか!?教えてくださいっ!!!と天に求め
手がしびれ痛くて鎌が持てないためフェイスタオルで鎌と手首を縛って続けてやってみるその中で、ようやく「角度」をつかめた。

経験値がある人からは「慣れですよ。」といわれたけれども、
チョンミョンソク先生に「力じゃなくて、角度」だと教えてもらっていなかったら、
たぶん私は「自分はできないんだ」「向いていないだ」とそう思って努力も研究もせず放り投げるように止めたと思う。

手や手首、腕、痛めつつ角度を見つけて思ったのは

効果を出す方法を考えてやってみながらすべき。そういう考えが、ほんとに頭になかったんだなということ。

「認識が間違っていた」ということを悟った。

畑作業は力仕事。という認識がものすごく堅固だったのだ。
もちろんそういう面はあるが、草刈りには草刈りに必要なポイントを押さえてこそ最大の成果が出せる。
なのに、それに気づかず、ただ力技でやっていた自分がほんと愚かで恥ずかしい。。。

もし、私がチョンミョンソク先生から「角度」のことを聞かなかったならば、おそらく
「自分はこういうことに向いていないから、出来ないんだ」そう思ってやめただろう。

適当にやったのではなく、自分なりに一生懸命にしたのに、結果がよくないとき「やっぱり私だからダメなんだ」と思うことが人生を振り返ると、よくあった。そのすべては原因に目を向けずに、諦めていただけなんだと気づいた。

たかが「草刈り」だが、今後生きる上でプラスになる考え方を補強・矯正の機会を得ることが出来た。

チョンミョンソク牧師は本当に不思議な存在だ。
その一言が何気ないのだが、それを自分が行ってみるかにどうかで、人生が善いほうへ変わってきた。
だから「先生」と呼ぶのは、誰かがそういうから呼ぶということでなくて、
わたしの人生に必要なこと。大切なこと。誰も教えてくれないようなことを行なったうえで教えてくれるから、私は「先生」と僭越ながら呼ぶ。

行ってみてこそ、得られるそのプライスレスな価値。
日曜礼拝のメッセージを生活の中で行って何が得られるか、どんな変化が自分に生じるのかワクワク本当に楽しみだ。

 

「種を蒔く通りに得る」とは。

名前が素敵な「借金なし大豆」を手に入れたので、プロの農家さんに蒔き時を教えていただき
去年試しに蒔いてみましたところ・・・どうなったかといいますと・・・・

36粒蒔いて芽が出て苗までになったのは12個で、

最終的にその12の苗たちから大体380粒ほどの次世代が誕生しました。

蒔いて芽が出たのは三分の一だった。けれども、実を結んだその結果を元と比べて考えるならば
ほぼ10倍以上になりました。
正直、三分の一しか芽が出なかったときになんだか気落ちてしてしまい、放任で植えたままにしていたのですが
最後までみたら、成功だったので
非っ常~に感慨深いです。。。

これは私に向けて悟れというメッセージではなかろうか。と思ったところ・・・

人生もきっとこうなんだ。

上手くいかないようでいて、最後まで
すべきことをしたら倍以上になる。
だから、あきらめるな。

そういうメッセージを万物(大豆)からもらえました。

あとは、時に合わせてこそ。

 

おととし、父が大豆を蒔いたけれど虫に食いつくされてしまい枯れてしまったという経験を目の当たりにしたので、大豆は難しい。そう思っていました。
しかし、蒔く時期をちゃんとつかめばそこまでひどい被害は無農薬だとしても生じないよ。とプロの方々からお話を聞く機会があり・・・半信半疑ながら蒔いてみたところ、まさに「時」が重要。
(後日、植物学的な講座で知ったのですが種それぞれに発芽する時期(温度・光・水)のプログラムがあり、それがそろってこそ発芽と生育が進むそうです。つまり時期がずれると芽が出ても実らない。(また種によっては刺激が必要なこともあるそうな。傷がついてこそ発芽するとか、焼かれてこそ発芽するとか)種という命にも個性と計画(プログラム)があることに命それぞれに意味と価値があるって尊いなあと思ったり。。。。)

時に合わせると、虫にも負けず(蒔く時期が早いと、虫に歯を食い尽くされる)
天の恵みである雨と日差しが適度だったからこそ、実りました。

天気は人間の力では、どうにもできないから蒔いた後に雨を降らしてくださる神様の偉大な恵みの雨の威力を植物たちの勢いのある生育をみて本当に感嘆するしかないです。

私はただ蒔いただけというのがシンプルなだけに、時に合わせること。その重さを感じました。
私の責任分担は本当に10%で、あとの90%は天であることが身に沁みました。

よくチョンミョンソク牧師が「最後まで」とおっしゃるのですが
「最後まで」の「最後」は成功・成就なんだな。
それは自分の責任分担と、神様の助けが合わさってこそだよと教えてもらいましたが、なるほど。と思いました。

自分の成長もきっとそう。
今日はうまくできなくて、悔しかったこと。悲しかったこと。辛かったことも。
あきらめなければ
すべきことをするならば、それらは肥やしとなって過去とは違う、新しい自分を作る。

自分の不甲斐なさを教会でも社会でも感じるときに落ち込むこと、やる気なくすこと今でも普通にありますが
それでもそこで座り込み続けることがないのは一貫して教えてくださったことがこうして生活の中で確認しつつ新しい自分を作る糧をだとかみしめるからです。

そして、何より目に見えないけれども確かに存在されて呼べば答えるとおっしゃったとおりに
働かれる神様が万物や人を通して、そして主日礼拝のメッセージを通して必ず答えてくださるからです。

今週は「貴重に思ってこそ、神様は貴重なものあたえてくださる」とおっしゃっていたのですが、

貴重なものとは、神様の御言葉(真理と愛)だとしみじみ心から認めるしかないです。
御言葉という種を自分の考えに蒔くと新しい自分になるべく、自分の限界を超えていく力を生活の中でもらえるからです。

自分と人生は問題だらけだけれど、その問題の答えである御言葉(真理と愛)を考えて生きるときに自然と、人生・生活が挑戦になっていって、さまざまな事件も困難も問題があったとしてもそれは新しい自分を生む過程と見えて来て、不安よりは確かに助けてくださる神様の御働きがどこからどのように起こるのか、また教えてくださったことをどう使って生きるときに解決が見られるのかわくわく楽しみになるので、価値はお金に換算できません。
明日の礼拝のメッセージ、どんな種が蒔かれるのだろうかと、すごく楽しみかつ良い緊張感と期待でいっぱいです。