新しい朝。

変わりたくても、変われない。

そういうジレンマのどつぼだった時、新しい朝が来ても、季節が変わっても
変化のない自分のココロを見て、ただ過ぎていく時間が恐ろしく、もどかしく、苦しかった。

万物が時にしたがって花咲き実を結ぶのを見ては、ひとり置いてゆかれるような気持ちだった。

「御言葉聴けば変われるよ」と言われた時、
自分のできる限りのことをしたが変わることが出来ず途方に暮れていた私にとって
半信半疑の心が5割
月も星もない夜の様なこの空虚感と焦燥感のココロに朝日が昇るかもしれない期待が5割だった。

宗教に答えがあるのだろうか?という疑念はあったが、
心理カウンセラーの先生に「あなたの知りたいことは、神様しか解けないことだ」と言われたことを思い出して、
神様がいるならば、教えてくださる機会をもらったことだと決意して、一歩踏み出したのを覚えている。

道を調べて、目的を確認して、自分の足がどこの地についているのか
足の裏に生きているという実感と感謝が生じるようになるまでは、いろいろあったけれど、

どこでも教えてくれない人生の根本と自分のココロの取り扱い方を教えてもらう
その貴重な情報を得るには必要な努力という対価だったと思う。

今は、新しい朝、新しい季節がくる時、恐くない。
私に力をくれることを感じられるから。

今日は主日礼拝。
太陽のように、必要な新しい真理の光と神様の愛を心いっぱいに満たそうと嬉しく準備する。

点検。

高校卒業後、12年ぶりくらいに会った友達にショッピングモールでばったり会った時、
「まともになったね」と真っ向唐竹割り※ヨロシクな感想いただきました。

そうですよね。

自分でもそう思います。

御言葉聴いて、考えを直したり、新しくもらったりしましたから。。。
(‐∀‐;;イタタと思う気持ち2割と、
やっぱり摂理で御言葉聴いて良い方へ変化したと思うのは自分と家族だけではないと
はっきり証言していただけて
スッキリする気持ち8割だったことをふと思い出しました。

<現在行なっていること>はそれだけ能力があるということだ。
<現在できないこと>もやってのみ、100%能力を発揮する。

摂理 キリスト教福音宣教会 2016年9月28日水曜日の御言葉
「もう「実践」だけが残っている。 信仰の居眠りをせず、慎み、目を覚まして行ないなさい。」より

今日も御言葉で力もらって、出来た所、
出来なかった所を点検して
明日に備えます。

(○`ω´)ゞ

※唐竹割り:竹を縦に切り裂くように真っ二つに相手を斬り割ること。