「ありがとう」はどこから生まれるのか?教えてもらった話。

私の業務はひたすら質問を受けて、回答をする内容。
なので、重複する質問が頻発することもしばしば。
しかし、質問者はまったく別の方。
1日に同じ質問が10回続いても、その一人ひとりは性別も年齢も性格も状況も十人十色。

正直、私サイドの話だと、「またこの内容か~」とげんなり気味になる。。。
でも、お客さんにとっては、そーではない。
この感覚の溝が大きい時がしんどくなる。。。
その瞬間、神様を悲しい気持にさせる私になってしまう。。。

先生だったらどうするんだろう。。。
いつも神様に感謝しているチョン・ミョンソク先生の姿を思い出し、考えてみた。

どうしたら感謝を心からできるようになるのか?

「自分の視点ではなくて相手の視点に立てるような努力したのかな?」
聖霊様の問いかけが心にそよ風のように私の心に入ってきた。

していない。しんどいわ~という自分の思いにどっぷりつかっていた。

先生だったらどうするだろう。。。

先生は一人ひとりを神様の宝だと思って接してくださる方。
わたしは先生にまだ直接会ったことがないけれど、そういう先生だと思っている。
どうしてそう確信するのかというと。
以前私は先生のお母様にお会いした事がある。
その時、先生のお母様は私に握手をしてくださった。
ご高齢でありながら、熱く力強い心のこもった握手に先生はきっとこういう方なんだなと思った。
何人いようが、適当にしない。真心と真実さで接してくださる方なんだなと。

それを思い出した。

話の内容をみるのではなくて電話の向こうにいる方の心に会うようにしようと思った。
どんな心で話されているのか、そこに集中してみるようにしてみた。
緊張されているのかな?お忙しいのかな?
少しでも話せて良かったと思ってもらえるにはどうしたらいいだろうか。。。
など、回答をすることを目的にしないで、対話の意識を変えてみただけだが
お客さんも私も、よかったと思える対話ができるようになった。

この仕事を通して私の良くないところを直したり、
知るべき必要なことを教えて下さり学ばせてもらえること神様に感謝する心が戻ってきた。
神様の前にふさわしくなれるよう、考えの姿勢を直すことができた。
感謝は、相手がいて自分がいて、一対一。
その価値を貴く思うことから始まるんだ。とも思った。
悟らせてくださった聖霊様にまた感謝。

先生のような感謝をもっとできるように、
心があったかくなる先生の感謝する姿にもっと近づけるようになりたい。

この経緯を得るようにして下さった御言葉↓

「接し方によって『取るに足りないように』あるいは『より貴重に』使うようになります。」
「接し方、使い方によって運命が左右されます」
2016年6月5日主日の御言葉
「<人間>もどう接し使うかにかかっているし、<環境>もどう接し使うかにかかっている」より

マインドコントロール。

マインドコントロール
《(和)mind+control》自分の感情を制御すること。
また、他人の心を自分の意のままに操ること。
例えば、宗教などが独自の手段によって信者の人格・精神を変革・統制すること。
goo辞書より

 

 

摂理で初めて面談してもらった時の思い出になるが・・・
衝撃が全身に走りまくった面談だった。

 

 

「<お祈り・御言葉・賛美>この3つしていれば全部、問題解けるから。」

 

 

マジか!
私の話、15分も聴いていないのにこの一言で終了。

人の心は変わりやすい。
いろんな事物で変化する。
心の波に精神という船が浮いているならば、
その波を治め、船が転覆しないようにすることが人生の問題の解決方法だというのだ。

わたしの人生の問題、長編スペクタル3時間くらい語ろうと思って準備したのに!!!
どういうこと?!
話を聴いてもらえなかったショックに面談後、少し・・・考えこんだ。

そして、考えた結果・・・

私の話を聴かずに「解決できる!!!」と豪語できるこの牧師さんと
牧師さんが信じている神様の御力・威力、
私が嘘か真か判断するには
やってみるしかない。

やらずに判断するよりは可能性にかけてみよう。

やってみようじゃないの!!!
ということで、毎日賛美3~21曲 聖書を5~10章読む お祈り5~30分挑戦してみた。
期間はおそらく1か月くらいだったと思う。

賛美・・・歌詞が心の中にしみいるように入った瞬間、涙が出てきた。
上手いか下手かじゃない。
歌詞に自分の心を込めて捧げる時に、心の奥からにじみ出るようになぜか涙が出てきた。

聖書・・・よくわからなくて、眠くなることもあった。でも、わからない所を何度も読んでみて、バイブルスタディーで聴いたこと確認した。そうしたら、歴史を通して人生の問題の核が見えてきた。

お祈り・・・わたしは今独り言を言っているんだろうかと思う時があった。けれども、自分がわからないこと・思うことをまるで人に話すかのように見えない神様に率直に話すようにしてみたところ、面白くもあり、自分ではどうにも変えられない否定的な思いが雪解けのように溶けることがあり不思議だった。

つまり、わからないことがわかるようになった。

何で賛美するのか。
何で聖書読むのか。
何でお祈りするのか。

そして、自分は問題だらけだけれど、答えは神様が持っている
自分がバイブルスタディを学ぶ中でつかむべき答えがあることがある事がわかった。

自分がやってみないと見えない。わからない。
「出来るように示してくれた牧師さんの面談は天の導きだったこと。
かーなーり後に、心から感謝した。

これをマインドコントロールという人がいるだろうか?
当事者としては、
誰かの意見や話を擦り込みなどまったくなく、
自分が出来ることをやって見た結果、
目に見えない神様が聖書を通して、お祈りを通して、賛美を通して心に働きかけてくれたことだったから、全く操られた感じはない。

また、自分の心を無理矢理、制御している感じもない。
ありのままの自分の心を神様に向けるお祈り・賛美は楽しいと思った。

「人格・精神を変革・統制」に関しては、いい感じの方向(笑わない子が笑うようになった)になされたので、家族は良かったと言っている。

わかったこと2点

マインドコントロール的なものはない
「お祈り・御言葉・賛美」は全くお金がかからない。
投資するのは時間だけ。

結論。
私の体験からすると、日本で認識・問題視?されているマインドコントロールに関して、
摂理においては皆無である。