目に見えない神様をどうやって確認するのかPart2.

悩みがあることが人生を生きることのような気がします。
悩みが特にない人にはこの記事はあまり参考にならないと思いますが^^;

悩み・・・どうしたらいいかわからない時。

そういう時、神様の御言葉がどのように助けてくれるかについてお話しします。

私の父は非常に血気盛んで、一回スイッチが入ると怒鳴りまくり、家屋破損するほど自分の感情を自制することがむずかしいところがある人です。

証拠写真↓ 頭にきて、階段の壁をけって穴開けたKIMG0353

私もその性格を受け継いでおり、非常に自分の血気と憤りを治める事に今も苦心しています(^_^;)・・
大したことではないのに血気のスイッチがONになり。。。。
何とか、打ち消すために唇をかみしめて口の中に血だらけ事件が起きます。

摂理に来てからかなり穏やかになったと自他ともに認める奇跡なのですが、それでも今でも自分の直すべき血気を目の当たりにすると
orzがっくりする気持ちにおそわれます。
そんなある日・・・・

<親からもらった性格>のことで心配することはない。
自分が「第二の創造」をしてよく作ればいい。
作ることが問題だ。

と。

人間は「親の性格」を持って生まれる。
しかし成長する中で作れば、親からもらった性格を覆して、
変化させるから、大した問題はない。

 

大した問題であるのですが、「大した問題はない」とおっしゃってくださり・・・
言い切ってくださるその力にしびれました。

到底、自制・我慢にすることでいっぱい一杯な自分でしたが
この御言葉が血気のスイッチが入りそうな時に思い浮ぶようになり、
「神様の心・品性を学ばせてください」と求められる心まで生じ、
今までにない平常心的な心で、やりすごすことができて感無量。口の中、血の味せず終われた!!!という喜び。

神様の御言葉の御力を感じた!!と摂理の姉妹に証したところ

「御言葉を受け入れる力がすごいね~」と・・・・( ´・д・)エッ!?

いやいや違うよ!自分にはできないって。
八方ふさがり的に、道がなく
這い上がりたくても、這い上がれない。
そのような穴に落ちているところに梯子をかけてくださるような、
もしくは
その穴にロープを下して引っ張ってくださるような御言葉だよ。
自分には「出来ない」ということ認めるしかなかったから、
その御言葉があまりにも光るように、私の考えの中に入ってきたんだ!!!と熱く力説するに至りました。

そうなんです。
自分のありのままを認めるその瞬間、神様の御言葉の威力が発揮するなと思います。
人間の生まれ持ったもののままで生きるのではなくて、神様の考え=御言葉で自分を作っていくこと。
それが見えない神様の御働き・助けと愛を感じます。

「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種蒔く物に種を与え、食べるものに糧を与える。
このように、我が口からでる言葉も、むなしく私に帰らない。
私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを果たす。」旧約聖書イザヤ書55章10~11節

amen!そのとおりです。
かならず成される神様の御力・御言葉の威力。

(´∀`∩)halleluiah

感動するときって。

見たことが無いものを見る時ではないでしょうか。

見たことが無いものを見る時に、感動するし、興奮しませんかね?

こんな美しいもの見たことがない。
こんなおいしい物食べたことがない。

今までに体験したことがない事象に会う時、わたしは目が覚めるというか、心と体の細胞が湧き上がる感じします。

そういう感覚をあじわうこと。摂理ではけっこうあります。
わたしは、チョンミョンソク先生の説教(御言葉伝える)を通してあるんですが、先生の何に感動するかについてちょこっとシェアするかんじで書いて行こうと思います。

「あなた方によく言っておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」
マタイによる福音書25章40節

イエス様が比喩で兄弟愛(博愛精神)を説かれている部分です。
ミッション系の学校で8年間いろんな牧師さんに会って説教を聴きましたが、これを実体的に行なってきた牧師さんに会ったのはチョン・ミョンソク先生が初めてでした。

韓国が朝鮮戦争の影響などでまだ国自体が貧しく大変な生活をしている人が多かった時代にバス停の近くや道端に物乞いをする
母子がいたのをみて、先生は自分のバス代を渡してあげてご自分は歩いて15キロ以上の道のりを帰られた話(ポムソク牧師のブログ「古木」参照)そのエピソードにも心打たれましたが(他にもいろいろありますが)、

私自身が先生のその「どんな人も尊く接する心」に触れたのは
摂理で礼拝に正式に参加するようになって1年経つかどうかの時でした。

慣れない一人暮らし・都会での生活に心身疲れてお祈りすることなかなか深くできずに神様かんじられなかったり、御言葉を聴きたくても眠くて大変だったりする中で「私は特に役に立てるような人ではないし、神様信じることは別、ここにいなくてもいいじゃないか?今日で礼拝参加するのは最後にしよう。」そう思って御言葉を聴いた日でした。

その時インターネット中継で説教を聴いていたのですが、

「先生がいなくなったら、みなさん困るでしょう?
そのように、あなたがいなくなったらそのぐらい困ることです。」

そういきなり、説教の途中でおっしゃったのでした。

世界各国、老若男女に慕われている先生がいなくなったらそりゃ大変でしょう。
その先生がいなくなる事と、
いてもいなくても世界は変わらない取るに足らない私がいなくなるのは比べる事しなくてもわかるぐらいのことなのに、
そうおっしゃったことに驚きでした。

お金もないし、肩書きも地位もないし、持っているものは何もない私がいなくなることなど誰も困らないはず。
誰にも影響与えない私に対して、

先生は「あなたがいないと神様が困る。」

その言葉には、
私が生きていることがどれだけ大きなことなのか
大切なことなのか、が伝わってくる真実な想いがありました。

聞こえのいい言葉は、ちまたにあふれていると思いますが、心動かす言葉はあまり聞けないです。
心を動かす言葉は、真実な想いが入っていると思います。

一人の人を、「たった一人」として神様の目で尊く見て、接する。
聖書に書かれている、エス様がおっしゃった御言葉をそのま行なってを生きて来られた方なんだなと感じました。

良い話は聴こうと思えば聴ける世の中だと思いますが、
自分の存在がどれだけ大切なのかを心でかんじることが出来る話を聴けるのはあまりないのではないでしょうか?

私は摂理しか知りません。