考えの癌と治療法。

自分を自分で貶める考えは、不健康だが、おかしなことに
そういう考えが雑草のごとく根強く、
「自分だから仕方がない。無理だと思う。」「自分なんかで申し訳ない」という考えがベースに陣取っていた頃がある。

そういう考えだと何が起こるか?というと、自分が貴い。ということがわからない。

自分が貴いということがわからないと何が起こるか?というと。
神様が自分のことを本当に大切に思っている、愛しているということも
わからない。
ということが起こる。

御言葉は神様の愛。
愛するから愛ゆえにくださる、より良く生きることができるように下さるメッセージなのに、
「できてないでしょ。だめでしょ。」って、指摘として聞こえてしまったり、
何度も何度も愛していると言われても「愛しているのはみんなのことで、自分はそこに入っていないだろう」と思ったり、本当に神様の心をもどかしく苦しくさせる人だった。そして、自分が何より苦しかった。

そんな時、究極的な万物啓示(万物を通してくださる神様のメッセージ)をもらった。。。

教会で朝お祈りをして、帰り道の途中。
目の前にロールパンみたいな拳ぐらいの丸っこいパンが
むき出しでそのまま落ちていた。
誰かが、どうぞ。と置いたみたいに。
そこへ、カラスが「カァ~ッ」と言いながら舞い降りて、パクっとくわえて去って行った。

面白いぐらいに、一瞬の出来事だった。
そして、強烈に私に向けてのメッセージだと感じた。

どういう意味でしょうか?とお祈りしたところ・・・・

マタイによる福音書4章「人はパンだけで生きるのではなく、神の御言葉で生きる」と
マタイによる福音書13章イエス様が種まきの比喩が思い浮んできた。。。

だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。
道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。マタイによる福音書 13章 19節

イエス様がおっしゃった「道端に種がまかれた」状態がまさに私の心のことで
私がちゃんと受け入れてないから、悟れない、奪われているんだよということを
痛切にわかるように見せて下さった。。。。

御言葉を聴くだけだと変化出来ない。
御言葉を正しく聴く・受け入れる・悟ることまでが本当に大事だと痛感するしかなかった。

自分の心が苦しい理由は自分の考えの癖・考えの癌だ。
それを破壊することが必要で、
また御言葉を正しく悟る努力をする事が必要だと気付かせてもらった。

それまでの私は、ただ聴くことに満足をしていたと思う。
でも正しく聴けないから、また同じ話をしているなと感じたり、自分とは関係ない話だと思ったりしていた。
はなはだ、恐ろしい・・・。
自分を正しく見れない・分からないことで、苦しい悪循環にたたずんでいた。。。。

チョンミョンソク先生が、神様は万物通して自分に語られるし、心考えを通しても語られると教えてくださったから気づけた。
神様が私にわかるように下さったメッセージを受け取る事ができた。
そして、自分の考えで勝手に解釈しないように
聖書の御言葉で確認しなさいと教えてくださったから、
正確に自分の問題がわかった。

わかってからは、慟哭の悔い改めのお祈り(いらない考えをそのままにしていたこと、神様の愛をわからなかったことなどなど神様に謝った。)をして、また「御言葉を悟れるようにしてください」と求めた。
しつこくお願いをしていく中で、
御言葉が自分の考えに必要な力を与えてくれることを感じられる状態になった。

私の心と考えの手術は幾度となく
この10数年間の中で行われてきたが、
やはり毎度、自分の考えの癌を見つける時の衝撃と治療に至る方法は、
御言葉とお祈りだ。

否定的な考えをぶっこわして、神様のくださっている愛を取り戻していく過程。
教えてもらった御言葉の意味と価値を前より正しくわかるようになり、
否定的な考えの鎖から、心が自由になる分、
イエス様がおっしゃった「心を入れ替えて幼な子のようにならなければ、天国に入ることは出来ない。」
この言葉の意味がじんわり、わかるようになった。

道を伝える。

イエス様は
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 」
ヨハネによる福音書 14章 6節

とおっしゃいました。
わたしは摂理に来る前に学校で聖書を読む機会が多かったので、
いくつか気になる箇所があり、常々これはどういう意味なのかすごい気になる。。。
はっきりと教えて欲しいです。イエス様に会いたいですとお祈りしたりしていた時がありました。

チョンミョンソク先生は「イエス様の説教を直接聴きたいです!!!」とお祈りされたことがあったそうです。
そのお祈りに答えとして
「あなたの声を通して私があなたに伝えるから声を出して聖書を読みなさい」と言われたようにかんじて、
イエス様がどのように説教をされたのか考えながら、聖書を声に出して読んだそうです。
その時に、イエス様の心情が伝わってきたそうです。

心情。
イエス様は確かに2000年前に生きて伝えてくださっていた、その心情。
イエス様がどんな気持ちでどんな心で神様の愛を伝えていらっしゃったのか、それを先生は受け取って、
あなたもそのように天の心情を知りなさいと私に教えてくれました。

聖書は、ただ読むと眠くなります。
分かるようでわからない、なぞなぞの様な話にみえるところあります。
でも、意味と理由があって旧約聖書四千年、新約聖書二千年、合計六千年経て先人たちが命を懸けて
殺されることもありながら、自分の肉体の命がなくなっても、残そうとした書物。

先生は、聖書は神様からのラブレターだと表現されました。
その愛を知るまでは、わからな過ぎて、頭がいたくなる聖書は埋めてしまえと埋めちゃったときもあったそうですが。
先生は、わかるまで祈り続けたし、わかったことにとどまらないで
誤解されたり、悪口を言われたり、濡れ衣着せられたとしても、
みんながその愛を知ることが出来るように行ないながら、伝えてくださってきました。

だから、人生に答えも意味も希望も見いだせなかった私が生まれ変わったように人生を生きています。
わたしは直接先生に会って聖書を学んだり説教を聴いた世代の人ではありませんが、
寝る事、食べる事を惜しんで先生がインターネットを通して全世界に向けて御言葉:神様の愛を伝えている姿をみました。
経緯はそれぞれですが、先生通して神様の愛を知るようになった人は摂理に今いる人達全員だと言って過言ではないと思います。

日本に今キリスト教で神様とイエス様を信じる人たちの人口は日本の人口の約1%だと言われています。
その世代の割合としても若い人が多いかというと、残念ながら多くないです。
でも、キリスト教福音宣教会-摂理の会員:メンバー(信者って私たちの中ではあまり使わない単語なので、)は
大学生・青年部若い年齢層の社会人が多いだけでなくて、お子さんを育てている若いお母さんから、お子さんを育て上げた熟練したお母さん世代まで神様を知って神様と共に生きる喜びを持って教会に集って一緒に歌ったりスポーツしたりして神様に感謝捧げています。

それが宗教に狂っているんじゃない?と思う方は、そういう視点でスルーされると思いますが、
若い人たちが虚しくない喜びを得る事が悪い事でしょうか?
子供たちの未来や自分自身の人生で悩みが多いお母さんに癒しと力を受ける事ができることは、だまされていることでしょうか?
肉体の終わりを感じる年齢に近づく中で、自分の永遠の喜びを手に入れることが、気の迷いでしょうか?
摂理がよくわからない団体として不安に思っていらっしゃる方がいるとしても、
摂理で信仰生活をする人達のことを悪く言うのは、良心的に見てどうなのでしょうか。
私たちが誰かを悲しませる事をしているでしょうか。
苦しめるような行ないをしたでしょうか。
より神様を愛そうとして、その神様の愛で隣人を愛そうと努力する私たちは愚かな人達なのでしょうか。

問題だらけの自分に差し伸べてくださった神様の手をどうつかむかは自由意思。
強制はまったくないのが摂理です。なぜならば、神様が自由意思を人間に与えたから。

摂理でチョンミョンソク先生が常におっしゃることは、神様を愛しなさい。
先生から私が学んだことの一つは真実に祈る事。神様を騙すような祈りをするな。ということ。

壺売ってこいとか、いくら出したら救われるとか、献金しないと地獄に落ちるから献金しろとか、そういう話全くないです。

いたって、平凡というか、人生の中で誰もが感じたり考えたりすることに、真実に向き合って答えてくれる礼拝・メッセージ。
イエス様がなぜ【命の道】なのかを、わかるように教えてくださる先生。

それが、若い人から人生が成熟した世代の方々までが摂理に集う理由だとわたしは思います。

つまり、伝道=勧誘では「ない」ということです。

道を、選択するのはその人の自由。そういうことです。

できたら、より良い道を選んでいきたい。
というのは各個人の当たり前の願い・望みだと思いますが、
自分が良いものを知ったら、隣の人や、友達や家族に教えたくなるそういう心理は誰にでもあるんではないでしょうか。
企業の広告より、クチコミの方が信憑性があるのはそういうことではないでしょうか。
というわけで、クチコミ的なブログを続けます笑