暗雲なとき。

心と考えがもしゃもしゃ・モヤモヤ・暗雲めいている時。
祈りにくい。。。

その暗雲を蹴散らさずに祈ると、ひじょーに表面的な、簡素な味のない祈りになる。
聖霊様の表現だと「砂漠で一人ぼっちのトークショー状態」。

暗雲はまさに自分の考え。

暗雲を突き抜けるまで、「神様の考えください」と神様の考えをもらえるまで祈るか。
暗雲を聖霊様が吹き飛ばしてくださるまで、ひたすら賛美するか。

過去のイキサツを思い出して、神様がしてくださったことを思いだして、
感謝することで暗雲がじわじわ無くなるようにするか。

そもそも、暗雲がどうして起こったのか、
原因理由を主と共に究明をして御言葉で裂くべきものを裂くか。

暗雲がリアルに今私のココロ考えに立ち込めていて、
主を感じられない・神様の愛が遠くにある感じがしますと天に実況中継をするか。

暗雲を突き抜けるポイントは
暗雲の向こうには、かならず澄み切った美しい空があるから
それを信じて、さまざまやってみること。

チョンミョンソク先生の精神「最後まで」。
その精神を学びながら、今日も考えの戦いに行ってきます~。

知り合って、付き合うまで・・・いわゆるイキサツ。

中学1年の時、聖書の授業で「人生は1度きりです。生まれ変わりはありません。
神様が一人ひとりを個性として同じ人はいないように作られたからです。」牧師先生から話を聞いた。
この時に、唯一神教の神様に初めて会ったと思う。

はっきりとした仏教徒でもない家で育ったとしても、私は輪廻転生を普通に信じていたから
カルチャーショック的な衝撃を受けた。

わたしは、中学3年生ぐらいになってようやく
毎日賛美歌うたったり、聖句読んだり、主の祈りを唱えたりすることが生活になじんだ。
それまでは、なんか居心地が悪いというか、キリスト教に戸惑っていた。
でも、新約聖書にあるイエス様のエピソードが心に不思議に響いた
「山上の説教」や「善きサマリヤ人のたとえ」とか、
神様側の視点の真と善についてイエス様の教えに、いい意味で考えが覆ったのを覚えている。。。

日本人の人生観・神様観とキリスト教が土台の人生観と神様観は全く違うので、
摂理で初めてキリスト教に触れる方は、普通に戸惑ったり、違和感を感じたり、びっくりすることもあるだろうな・・・・と過ぎし日を振り返ってみた時、ふと思った。

祈ることも、聖書を読むことも、数年くらいしてみて、安定するというか、なじむというか、
自分の生活に入るまでの期間といいますか、神様とのお付き合いが始まるまでに過程がある程度あるとおもいます。

自分の戸惑う心をありのままを神様を伝えながら神様との距離が縮まっていくのが、かけがえのない思い出というかイキサツ。

後で振り返ると「懐かしいな」と思える日が来るので、
ありのままを神様に見せたり、伝えたりすることをおすすめします。(*´ω`*)

神様は、うれしいな~と自分にしかわからない形で反応を見せてくれます。かならず。