縛りというよりは、安全ベルト的な。

摂理は何か窮屈だと思う人がいるそうです。

そうかんじる理由はなにかあるでしょうが、
私が最近感じたことは、自分に責任があるということが前提の自由だなと思いました。

縛りというよりは、安全ベルトをつけるようなものだと思います。
たとえば、「喫煙禁止」を健康面で考えれば縛りじゃないように、そういうことです。

最近、あるメンバーに良かれと思って提案をしたことがありました。
明らかに、そのままの状態だとその子に不利益が生じえるかもしれない状態だったので、
わたしは指導者でもないため、一友達の位置で、悲しいことになってほしくないため
おせっかいだな~と思いながらも、見かねてちょっと踏み込んだ話をしました。
その子自身も指導者にも相談をしたそうですが、結局自分で今そうすることが必要だと思いますと
いって、そのように進めています。

それを通して、あ~やはり摂理って自由だなと思いました。

自己責任だ完全に。

本人がお祈りと御言葉で確認して行なうならば。

周囲も、天の願われることがなされるように祈りながら見守るしかない。

自分自身が天に訊いて、そして行なってみて自分で確認するんだなと
結果を考えるというよりは、本人が確認する。
それ成長するためには
大切な過程なのだ
と思いました。

天に祈って訊いて、御言葉で確認しつつ行なうことは安全枠の中で
必要な経験をすることなんだなと。
同じ御言葉を聴いてもどう受け取って行なうかも、人それぞれだし、
真理の上の自由って個性どおり。

いろんな過程を経て、その過程の味を感じるようになることもありますし、

確認って大事!だよと確認に重きを置いている摂理って自由なところだと思ったんです。

自分が行なってみて感じること。

まさに生きた実践ってやつですね。

 

ポジティブ思考と感謝生活は似て非なるもの。

昔、読書感想文の課題で「少女パレアナ」が出された事があった。

ハウス食品名作劇場の「愛少女ポリアンナ物語」(平成生まれは絶対知らないだろう)の原作だ。

当時のクラスメイトが「無理矢理な楽天主義は気持ちが悪い。そう書いて提出する」と意気込んでいる様子が
強烈だったので、忘れられない作品。(笑)

 

たしかに、心疾患に「ポリアンナ(パレアナ)症候群」という名前が付けられている。
どういう症状かというと
楽天主義、行き過ぎたポジティブ思考は現実と向き合わなくて実際取るべき行動をとれなくなる
というもの。

善いことを探す、そのことは良いとしても、現実にある解決すべき問題を見据えて対処しなければ現実逃避になってしまい
事態が悪化することもあるということだ。

ポジティブ思考は、落ち込みを回避できるが、根本的な解決にはならないという事を知り得る。

わたしは、摂理に来てから摂理外部の人から肯定的だとか、ポジティブだよねと言われることが時折ある。
以前は否定的な考えで負のスパイラルだった人なので、大分変ったんだな~と思う瞬間だが、
どうしてそうなったのか、をふり返って考えてみた。

思い当たったことは、
神様に感謝することで神様の視点で考えて自分の直すべき所、改善点を見つけて直していくことを
教えてもらったからだった。

そう信仰生活をする中で、すべきことの一つに「感謝すること」が上げられている。

「すべき」というと、強制的な命令的な感じの印象をあたえる言葉だが、
自分にとってあたりまえに必要なこととしての「すべきこと」だ。

チョンミョンソク牧師の神様への感謝の精神はどのようなものかというと、

崖のようなところから転がり落ちても、雷に打たれても、詐欺師に騙されても、神様に感謝。
神様がしてくださったこと、与えてくださったものは何年経っても感謝。
どうしてそうできるのか?と思って考えてみた。
絶対信仰があるからだろう。

どうして絶対信仰があるのか?
本当の苦痛を知っているし、そこから救ってくださった神様を真実に認めているからだと思う。

底辺・どん底を知っている人は這いあがるしかない。

そして、自分を助けて下さる方は誰なのかを痛切に知るしかない。
ダビデが詩編を通してもそれを語っているように。
なぜ神様に「感謝する」べきなのか?
チョンミョンソク牧師の説教を見るとそう生きるべきだなと素直に思えるのは
ご自身がその通りに生きて来られたからなんだと思う。

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