人生のロールモデル。

ロールモデルとは、そのセンターの模範になる人を指す存在であったり、自分があこがれる存在を指すそうですが

みなさん、ロールモデルをお持ちですか?

こういうカッコイイ生き方したい。

そういうのありますか?

摂理人だったら、せーので言ったら多分、ほぼほぼ一致するんだろうなと思いますが(笑)。
チョンミョンソク先生のロールモデルは、イエス様でしたね。
先生の説教聴くと、イエス様を本当に愛していて「狂っている」と言われても褒め言葉にしかならない
そんなフォーリンラブ状態。

イエス様について、神様の愛についてどれだけ実践したのか
先生の話を聞くとその真実さに私は知らないうちに涙がでちゃうんですよね。

イエス様がおっしゃったことをあれこれそのままやってみて
物乞いの方にバス賃全部あげてしまうほどで
「そこまでするなんて、やりすぎだ」とお父様に叱られたこととか。

先生は聖書を沢山読むだけじゃなくて、何が書いてあるのかを調べて、行ないながら伝えた方。。。

先生がイエス様を人生のロールモデルにしたのは、自分の人生を救う方だということを痛感したからでしょう。
純粋に神様を信じてここまでできるって
本当に、おどろくしかないですが、その先生が実践の仕方を教えてくれます。

行なったことをもって、実践を教えてくれる先生に会えたから。
幸せだなと、

今日の主日礼拝を通しておもったのでした。

カルト随筆記。

人と人は考え方と感じ方が違う。
だから、理解すること・理解されることは出来ないと私は孤独の中、思った。

人に話したところで、何も解決されず
むしろ逆に溝を感じるのだ。

しかし、摂理で神様に自分の思いを全部話すこと、それを教えてもらった時
神様の視点でみると自分の矛盾と相手の主張による摩擦も無理なく解けることを体験した。

結局、人同士の溝は考えと感覚の違いからくる。

そして、自分と違う意見・考えには納得がむずかしいものだ。
納得できるところで満足できるかどうかではないだろうか。
しかし、それが答えではないし、正しい答えはやはり人の次元では分からない。
主張の対立で終わるであろう。

自分が正しいというわけではなく、誰かが正しいというわけではない。

聖書の真理が自分の人生で起こるすべての摩擦と溝を解決できる基準になると実感したときに
真理はあなたを自由にするとイエス様がおっしゃったその意味を雷が落ちたように体感した。
どこのだれが摂理はカルトだといっても、それは否と。
私は論破することができる。
そう思った。

なぜなら、人同士の思いと考えでは、
馴れ合いか対立のどちらかしかない。
それは安楽さか溝の埋められなさになるかであり
つまりは、問題の解決ができない。

神様は双方が一つになるように真理と愛をキリストを通して教えてくれるのだ。

今起きているすべての問題はキリストによる真理と愛を知る過程なのだと
真理を持って解ける時に思う。

平たく言うと、人間同士のめんどくさい部分を
鈍感になることで乗り越えるのでなく
聖書の真理ですっきり解かれつつ癒されたりもするのですよ。と、いうことである。
これが摂理で体験したよかったこと。
の一つである。

よって、摂理はカルトだと思う方とも、
神様のもとで和を講じることは可能なのだろう。
偏見から来るカルト視は、実像を知るならば無くなるし
誤解から来るカルト観は、真理で解かれたらなくなる
結局は、知ることが大きい。

真理を自分の生活に引き寄せたときに、
イエス様が「真理があなたを自由にする」とおっしゃった意味が分かる。
そして、それが学びなのだと振り返って思う。

そういうわけで、怪しいカルトなのかどうかは、知ってみてから
判断してもいいのではないですか?という提案である。
これって勧誘かしらん。