自分を大切にするっていうこと。

自分の価値とか、命の価値。
そういうの、どこでわかるのか?
知ることが出来るのか?

そういうこと考える瞬間がありますか?

わたしは、自分の価値ってやはりわからないし、
大したことがないといまだに思っている、不信仰者です。

そんな人がなんで摂理にいるのか?

ふり返ると、奇跡を見たかったから。です。

自分が生きていくことに希望持てなかったから、
希望持てる様になったらそりゃ奇跡だなと思った。そんなこと起こるだろうか?
そういう、懐疑心からです。
そう疑い深い私は聖書のイエス様の言葉に何度もたてついていたなと思い返します。
(ほんとうに、天は懐が深いです)

奇跡は、自分が投資した分、確かにありました。

しかし、この奇跡は個人レベルなのです。
家庭レベルでも若干奇跡は起きていますが
まだまだ、奇跡を見たいです。
もっと民族、世界レベルの奇跡を見たい欲があるようです。

奇跡は、天を知る時に見ることができる

そう思います。

自分の価値、命の尊さ。
それは自分を作った存在、人間という存在を神様がどんなふうに見て考えて
永遠までを計画してらっしゃるのか、知ること、悟る事からくるんだと
摂理で引き続き学び中です。

卓上の空論ではないから、自分の粗と不甲斐なさとかもろもろ向き合いますけれど
根本は人知を超えた愛そのものである神を知るってことか~と
落ち込むたびに思います。

そんなリアルな生活です。
自分を大切にするってこと。
よくわからなかった私にはいいところです。摂理って。

散文でスンマセン。

チョッパヤ、一汁二菜と共に回顧。

今日は母がおともだちとご飯食べに行くから父のことをよろしくと頼まれたのもあり、
チョッパヤ、一汁二菜を作った。

メニュー:
大根を
千切りに近い棒切りで「だいこん油揚げの味噌汁」
「だいこんサラダ」(かつおぶし・ポン酢)
ピーマンも
千切り気味で「ピーマンと牛豚合いびき肉炒め」(味付け:ニンニクのスライス・焼き肉のたれ)

材料をババーッと切って、味噌汁用大根は鍋に、
炒めものは、ニンニクのスライスをオリーブオイルできつね色にしてから、ひき肉を入れて味付けを投入。
色が変わったらピーマンを入れて1,2分炒めて火を止めて余熱でピーマンに火を通す。(←こうすると色が変わらなくていいかんじになる)

時短ポイントは、火が通りやすい千切り風な棒切りとひき肉と焼き肉のたれ。

正味、約15分でつくれます。
簡単で早ウマです。
つくづく私の料理は料理っていえないな~と思いながらたべました。。。一人で。

そう、せっかく作ったのに父はテレビに夢中で私一人で食べ終わりました。

いろいろ、言いたくなる気持ちが腹の奥から
わ~ってこみあがってきました。
が、こういう心・気持ちで何か話してもいいことはない。と重々振り返って、もう一人のわたしが私を止めてくれたのと、
これは、あれだ、血気と憤りってやつだ。こういう時、チョンミョンソク先生ならばどうすると思う?とまで私に問いかけてきました。

先生、先生ならば隣に主が、神様がいらっしゃると考えて行動するだろうな。
そして、
私が見た先生は、相手にとって良い事が認識できるように丁寧に教えて下さっていたなと
そういうことを思い出しました。

でも、私は先生の姿をトレースした接し方ができないレベルだということを、痛感しました。

摂理に来る前だったら、こんなん、いろいろ考えなくて、わ~っと自分の気持ちをただ爆発させて終わっただろうな。。。
先生に会わなかったら、神様の視点で考えるなんてしなかったな。
そんな、回想のような、つぶやきのような思いが錯綜しつつ
父の姿を通して、私もこのようなことを天の前にしているのではないかと、申し訳なくなり・・・・
自分の為にしてくれていた、母や天の愛に感謝が全く持って足りなかったと
反省をするに至りました。。。。
でも、まだ父に対しては物申したくなる気持ちがあるので、もう少し天の前にひざまずいて
回顧しながら反省しようと思います。
そんな、まるでだめお的一家の日常の一コマでした。
m(__)m