実をつけること。

岩手在住の妹からさくらんぼが送られてきた。
めっちゃ甘い。

つやつや美しく輝くその実は予想以上に甘い。

このような美味しい実を結ぶには、どのような手入れをするのだろうか。

堆肥によるのだろうか。。。。
ふとそんな中、思い浮んできた。
「行ないの実」について書かれている聖句。
この実は神様の御言葉=堆肥となり実を結ぶ。
つまり、ただ行ないという結果だけを指しているというよりは、
神様が下さる御言葉(神様の知恵)を行なって得るモノを指している。

得るモノとは
見える世界でいうところの成功・勝利でもあるし、
目に見えない世界でいうところの変わらない愛。

神様と自分をつなぐ御言葉。
それを行う時に、自分ぴかぴかな愛の実になっていくんだなぁ。

信仰があっても、行ないがなければ虚しい。
そう聖書には書かれている。
愛がありき。
愛とはなのか、
命がけで伝えて下さったイエス様と、
そしてそのイエス様を本気で愛したチョンミョンソク先生を考えながら
一粒一粒、宝石みたいなさくらんぼをいただいた。

死生観。

人間がどのように死ぬか、死に方が問題ではなくて、どのように生きるか、生き方にある。
It matters not how a man dies, but how he lives.

たまたま、目にした一文。

これ、わたし中高生の時に考えていた。
どのように生きるか。どのような生き方をしたら、後悔ないのか。

そんなこと考えるよりは、偏差値高い大学に行くことが人生には必要だと言われても
どうしても、気になっていた。
そんな私が思いもよらず、摂理でバイブルスタディを学ぶようになった。

世間では、カルトだとか
被害者がいるとか
言われているようだが、

自分の目で確かめて、今に至る。

自分の不甲斐なさはあるけれども、
後悔のない生き方をしている。
それだけは確かだよ。
安心してねとあの頃の私に言ってあげたい。