火を使わない夏のおかずをとおしてふと思う。

毎年この時期は、キュウリ茄子三昧がスタートするのだが今年に限り、茄子が苗の時期に強風で茎が折れてしまったということでキュウリの独走である。

キュウリなかなかあまり好きでなかったのだが、
最近、美味しさが分かってきた気がする。。。
触感と水気なんだなと。

キュウリは、その成分がほとんど水分と聴いたことがあるが、そこがキュウリの良い所なんだなと思う。
当たり前といえば、当たり前だが、自分はその良いところよりも、キュウリくささがちょっと苦手だったのだ。
良い所に集中して捉えるとなんだか、印象変わるのが不思議だ。

キュウリの美味しい佃煮を教えてもらった。
近日中に作くレポをしようともう。

キュウリって簡単においしく作れるところもポイント高い。

梅こんぶ茶 粉末・顆粒とあえるだけでもおいしい。
酢味噌とミョウガで和えるのもおいしい。

どちらも下ごしらえで、スライスかぶつ切りなどした後に、塩をもみ込み一度、塩で水分をだして
味がしみ込み易くすることがポイントだ。

これって、神様の御言葉をいただく時にも同じだと思う。
味がはいってこそ、食材本来の良さもでる。美味しくなる。

しかし、御言葉が心にすっと入っていきにくい時がある。

いろいろな生活のもろもろのことで疲弊をするとき、
生きているようで死んでいる状態になる時、過呼吸(吸って吐くがうまくできなくなるかんじ)みたいになる時
わたしは、立ち止まって神様のメッセージ受け取れない自分の心に向き合う。

何で、今心が苦しいのか?

天に助けてもらいながら、ほぐして、
原因と結果を真理で再確認。

そうすると、爽快感にあふれる。

時にかなった、その時に合ってこそ、美味しいと思うことも同じだろう。
さっぱりとした夏のお惣菜作り、爽快感に溢れるものを探そうとおもう。

天国人仕様についておもう。

~でなくちゃいけない。~であるべき。
そんな心・考えが知らないうちに生じては自分を縛る。
それが摂理に来る前のデフォルトでした。

それが、聖書を学ぶようになってから
自分の基準が自分を苦しくしているんだなとわかり、
~でなければならない。が
自分の基準でなくて、天国仕様を目指せるようになりました。

天国仕様の一つ。

からだは一つの肢体だけではなく、多くのものから出来ている。
もし足が、私は手ではないから、からだに属していないと言っても、
それで、からだに属さないわけではない。
また、もし耳が、私は目ではないから、からだに属していないと言っても、
それで、体に属さないわけではない。
もし、体全体が目だとすれば、どこで聴くのか。
もし、体全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
コリントの第一の手紙12章14~17節

誰かより勝っていること・秀でること・イケてること
が必要必須みたいなところが世の中にはありますが、
個性で光る事が大事!
それを分かっている人は天国人です。

摂理に来てから長い私も、私よりも長い先輩の中でも
自分は役職などない小さい存在だとという考えを持っている場合があります。
でも、これは天国人仕様ではない考えです。

ある家庭局のお母さんがお子さんに「私は凡人だけれどね、」と卑下してしまっていたら「自分のことを凡人なんていうな。神様が見ているよ」と叱られたそうな。
天国は幼子の物であると、イエス様がおっしゃったのをまざまざと思いだすしかないシチュエーションがあったとのこと。
わたしは、このお母さんの気持ちにかなりシンクロ・共感してしまいますが、
神様の真理で考えると、お子さんのひとこと天晴です。

人の基準は、自分の価値を殺してしまうが、
神様の基準は、自分を生かす。
神様の目・価値で判断すること考える事が大事。
そう何度も何度も、めぐるように痛感しては気づくの繰り返しで申し訳ない。。。

そんなこんなで作品になる方法を教えてくれる神様の御言葉です。
天国仕様を知っても、インストールが完全でなく
再セットアップ的なアップロードが毎日必須であります。
速い人は、自分の考えを無くして天国仕様を占めるのが早いのか、
もともと天国仕様に近い考えなのか、
そんな気がします。

がちがちな自分の固まった考えをもっと、木端微塵に粉砕し弔って、自分の位置と価値をみつけるのじゃ。
新しい自分に生まれ変わるように御言葉(メッセージ)を与えてくださっている
その天の心・愛を受け入れて新しく生きよう。そうおもった水曜礼拝でした。