何で「人の目(判断)」が気になるのか。
そして、「人の目(判断)」は確かにあるとしても、
それは、むしろ自分を苦しくさせるだけなのに、なぜ気になるのか考えたことはありますか?
良心とは別に、自分が何かにおいて苦しさを感じる時、それは、ある種のマインドコントロール的なものではないだろうか。
と思いました。
たとえば、~したら~って思われるんじゃないか。
おかしいと思われたらどうしよう。とか。
こういった類のことは一言でいうと、人の目が気になる。
ということですが、
何で人の目が気になるんでしょう・・・・・。
人から判断されることは確かにあっても、
その判断が自分を本当に正しく計ったものとは言えないのに、
そして、その判断が自分を生かすわけでも、殺すわけでもないのに。
どうして、それを重要なものとしてとらえてしまうのか。。。
中学1年生の時、授業で初めて聖書について学びました。(ミッション系だったので)
アメリカの建国はキリスト教精神によるものであり、聖書に書かれている神様の人類に向けての愛、みんなが平等。
それによるところからいろんな人種・いろんな価値観が当たり前であることがアメリカにはある。
しかし、日本は同じであることが美徳というか、安心材料みたいなところがある。
それは世界的な視野や精神的な健康の観点から見ると異常に近い。そんなことを当時教えてくれた牧師さんは言っていました。
言われてみれば確かにそうかも。。。と思いました。
人の思想・価値観が宗教から影響を受けることがあるのだとその時初めて知りました。
判断基準・思想を操作するようなことは、調べてみると教育の世界や商売の世界ではわりと当たり前です。
知らないうちに情報を擦り込まれている。そういう世界の中に自分たちはいます。
全員が神様を信じ、神様の思うとおりに生きるならば戦争や殺人などないかもしれないけれど、神様は各個人に、自由意思・選択を与えて下さったから、考えること・判断・選択することができます。
神様を信じることも信じないことも自由です。
宗教がマインドコントロールするのではないか?と思い込み・概念が日本に漂っている感じがしますが、
実際、自分が社会で生きてみて思うのは、
日本人は、宗教がどーこー以前に、心の問題で苦しいだけなんじゃないかなとそう思える事が多いです。
わたしは、人の目(判断・評価)で自分の価値、存在意義を見出そうとしていた時、本当に苦しかったです。
砂の器に水を注ぐみたいなもので、絶対満たされなかったです。
むしろ、もっと渇く感じでした。
心のバランスを失って、さまざまな依存症が起こるのもそれに起因しているのではないかと思います。
わたしは以前今より体重が10㎏以上ありました。理由はストレスと心の不安定さからくる過食。
今は心のバランスが良くなったので、食べすぎる事がなくなり、運動もするようになったので、本来の大きさになった感じです。
努力することは良い事ですが、
自分の存在意義と価値を周囲の判断・価値・評価で見出そうとすると、そこに縛られて自分の本当の思い・考えが出せなくなって苦しくなるのではと思います。
前に触れたことがありますが、「一般的にみなさんどうされていますか?」と尋ねてくるお客さんが多いことに本当に驚かされます。
環境と状況と自分のレベルでの判断による決定なのに、みんながしているならば自分もする(状況等にあわない場合は、自分に不利益が起こるのにそれを全く考えていない)という、
これは人の目を意識する事で起こる二次弊害のように感じられ
日本には、どうやら出所不明なマインドコントロールが存在していると思いました。
自由な選択、考える事を奪うのが、洗脳であり、マインドコントロールだからです。
わたしは聖書を学ぶことで、その出所不明なマインドコントロール(人の目が気になる)から自由になりました。
自分の価値は他者が決めるのではなく、
自分が考えてよりよく生きるために自分を直して作っていくそういう生き方をする時に、自然に自分の心に満たされていきます。
自らが考えて、自らで判断、確かめられるから、人の意見・考えに流されずに充足感があります。
どうしてそれが出来るようになったのか?↓の聖句によります。
神の言葉は生きていて、力があり、
もろ刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と
関節と
骨髄と
を切り離すまでに刺し通して、心の思いと志とを見分けることが出来る。新約聖書 ヘブル人への手紙4章12節より
神様の御言葉は、
自分の考えの質を点検し再創造も出来るものです。
それを受けれて使う(行なう)か使わないか(行なわない)は各個人の自由です。