摂理にいて、信仰生活をしながら、社会生活をするから大変。という話が
社会人メンバーからも指導者の方からも聴いたことがあります。
それはたしかに、肉体的に見るとそれは一理ある話。
明け方祈って、御言葉を聴き、一日を始めることが大変。もっと寝ていたい。休みたい。
仕事が終わって水曜礼拝にいかなければならないことが大変。
そういう思いで見るならば、確かにそう。Wワークみたいな感じ。
しかし、そういうものだろうか?信仰生活って。
祈ること、御言葉を聴くこと、礼拝を捧げること
いったいそれは、何のため?
見た目は団体行動になりますが、結局、人生いきるのは個人戦。
みんなと団体行動することではなくって、自分がどうするのか。どうしたいのか。ですね。
その目的が自分の人生と結びついていることならば、
祈ってこそ力もらえる
御言葉を聴いてこそ答えをもらえる
礼拝を捧げてこそ世の中にはないプライスレスな癒し・喜びがある
結果を得るならば、実は人生がより深く、たのしく、味がでてきます。
しかしまぁ
疲れている時は良く休んでから、祈った方が深く祈れるので体を休めてから祈るのがイイと思います個人的には。
御言葉も、疲れていると、全く自分の話として聴けないから、やっぱり体調整えることの必要性・重要性を感じます。
話ずれましたが
部活みたいな信仰生活だと、辛いけれども
自分が選択する、生活の根本とするならば、得るモノがあるということです。
もちろん、部活で得るモノはありますけれど。
自分の意思とは違うところで団体行動を要求されるようなイメージが宗教団体・信仰生活にあると
摂理に来たばかりの人から以前聴いたことがあり、この記事を書いてみました。
なぜ、祈るのか?
なぜ、御言葉を聴くのか?
なぜ、礼拝を捧げるのか?
疑問がある時は、チャンスだと思います。
わたしも、いまだになんか祈っても不完全燃焼だな~なんかいまいちだな~
そういうのフツーにあります。
でも、そのフツーにある行き詰まりをとおして、新しくなるチャンスになることを経験から得たからです。
宗教・信仰とは、団体行動じゃないか?と思って捉えるのだとその通り、キツイものがありますが、
団体行動というよりは、
ありのままの自分の思い・考えを天に向けるところが実際だなと毎度のごとく思います。
一体自分はどうしたいのか?どう生きたいのか?
何を知り得たいのか?
そんな問いにたいして、かならず答えがある。
だから、やめられない。
そんな感じです。信仰生活。
という、平信徒のつぶやきでありました。