摂理歴10年以上の女性メンバーが
三者三様、「摂理カルト論」について個性と本音で語りました。
さくらさんの場合:摂理で宗教被害?!
哀しいかな。
宗教というと、あまりいいイメージを持たれないのが我が国、日本。
最近、女性芸能人がある宗教に出家すると発表したことが話題になっていますね。
私は摂理に来るまで、宗教=洗脳される、というイメージが、どこかありました。
怖い、人生棒に振りそう、みたいな。
宗教での被害といえば、大きく2つかなと思います。
1つ目は、精神的苦痛。洗脳と言われたりもするでしょうか。
精神を支配され、無駄な時間を過ごしたというような主張もあるようです。
2つ目は、お金。不当に高いものを買わされたとか、お金をたくさん使わされたとか。
お金に関わる仕事をしていますが、お金の恨みは根が深いものです。
では、宗教としての摂理ではそのようなことが起きているのでしょうか?
もし、起きているとしたらなぜ起こったのでしょうか。
正直なことを言います。
私は自分がそういう経験がないので、よくわかりません。
なので、私が摂理メンバーとして、経験したこと、知っていることを書いてみようと思います。
1つ目の精神的苦痛について。
私は洗脳されているのでしょうか。
私はこれまでにもこちらに記載してきた通り、大学を卒業後、現在勤務している会社に就職し、10年近く働いています。
ごくごく普通の会社です。
自分で言うのもなんですが、ちゃんとした社会人として、社会における責任は果たしていると思います。
始業時間の少し前に会社に着き、必要あれば残業し、ときどき出張に行き、営業活動もクレーム対応もします。
仕事ですから、いいことばかりでなく、嫌なこともそれなりにあります。
任せてもらえる仕事も多く、忙しいですが、
知識を習得し、考えながら、やるべきことをしっかりやろうと思っています。
家族とは仲良くなりましたね。
摂理に来る前より家族仲は好転しています。
これは、もともとの私の性格に起因するところが大きいですね。
夫と結婚し、新しい家族ができて、この喜びもひとしおです。
高校時代や大学時代の友人たちとも時々連絡を取り合っています。
専ら、私の年齢になると家族ができて、年賀状のやり取りに終始してしまう場合も多いですが。
旧友たちの活躍は楽しみでもあります。
人間ドックも毎年受診し(会社の指示ではありますが)、健康管理も大切にしています。
どうでしょうか。
私、洗脳されてますかね?
私は摂理に出会ってよくなった点が多いと感じています。
摂理ではやることが多いとは思いますが、強制されることはありません。
いいか悪いかは別として、したくないこと、気が進まないことは断ることができます。
私もこれまでいろいろ断りました(笑)
教会行事より仕事を優先させることも多々あります。
心から関わりたいことをさせていただけるので、感謝の連続です。
毎週の礼拝は楽しみです。
賛美し、お祈りし、御言葉を聞いて。
メンバーたちとおしゃべりして帰っています。
成長は大人になっても必要ですよね。
次元を上げていきたいところ。できることからやろうと思っています。
だから、私の人生、いろいろあって、楽しみです。
2つ目のお金について。
摂理では、日曜の主日礼拝時、献金の時間があります。
献金について御言葉で指針を示してくださいますが、金額を指定されていくら払いなさいということはありません。
1人ひとりの真心に委ねられています。
値の張る商品はあまり販売していませんが、私が知る限り、不当に高いものはないと思います。
商品を作るのに必要な材料費+人件費くらいの妥当な値段と感じます。
それも、買った方がいいと勧められたことはあまりないです。
ほしい方どうぞ〜という形式ですね。
買っている方は、本当にほしくて買っているように見えます。
被害というのは、感じ方次第かなと思います。
もちろん、明らかなものは別ですよ。
仕事で、お客様と接するときや社内で同僚と話すときも同じなんですが、
同じことを見て、文句というか不満ばかり言う人と、一方で肯定的に捉える人がいます。
多くの場合、不満が多い人は見方が偏っているように感じます。
もっと広く見ると、仕方がない面やむしろ将来的に必要なこととわかったりしますから。
不満をいうだけ、損しているように見えてしまうのは私だけかしら、と思っちゃいます。
摂理にいる1人1人も
まだ摂理に出会っていない1人1人も
摂理に出会ったけど離れてしまった1人1人も
幸せな人生が送れたらいいなと心から願います。
摂理はカルトなのか?
摂理はカルトなのでしょうか。
私はこう思います。
カルトと思う方にとってはカルトであり、カルトと思わない方にとってはカルトではないのです。
人というのは千差万別。
考え方も育ってきた環境も置かれている立場も人それぞれ。
説得しようとしても、ちょっとやそっとで考えは変わりませんからね。
でも、それでいいのだと思います。
たとえば、米ドルについて関心がある人がいます。
ある人はこれから金利も上がりそうだし円安になると思うからドルを買っておいた方が得だといいます。
でも、ある人はドルは今後下がるだろうから、米ドルを買うなんてとんでもないといいます。
またある人は、そもそも値段が動く(下がる可能性がある)ものに手など出せないといいます。
あなたがどう感じるか、それが答えでしょう。
ただ、米ドルの動きについて、ほとんど自分に関わるものとして見たことがない人もいます。
その場合、出した答えに、いや、自分の答えなど出せないのかもしれません。
自分の生き方は自分で決めたいものです。
自分で決めないとうまくいかなかったとき人のせいにします。
それがどれほど不幸なことか。
後悔なく自分で決められるだけの知識と経験は積んでおきたいと思います。
まっちゃんの場合:摂理はカルト? カルト宗教を考える
ニュースで「宗教で〇〇万円の詐欺にあった」と流れるのを良く目にします。
内容は、ツボだったり絵だったりを高額で買ったというような内容です。
まっちゃんが中学生の頃、当時一般人を巻き込んだ毒物事件があり、カルト宗教のことが連日ニュースで報道されていました。
だから、大阪の大学に行く為に家を出る時も家族みんなに
「絶対に宗教にひっかかったらダメだよ!」
そう口酸っぱく言われていたのを覚えています。
家族の話を聞きながら、(これからは一人になるから、変な人に騙されないように気をつけないといけないな)と思いました。
だから、一人暮らしを始めて数ヶ月後、NHKの人が放送受信料をとりに訪問してきた時も、すぐに母親に電話して
「なんか、NHKとかいう人が来てるんだけど・・詐欺?」
と聞いた覚えがあります。
結局、母親に聞いて「本物」だと分かり、お金を払って一件落着しましたが(^-^; ←母親は爆笑
そんなふうにピリピリしていた大学生の頃。
まっちゃんは摂理に出会いました。
NHKひとつでも、詐欺と間違えていたのに、
何で摂理に出会ってもまっちゃんは拒否反応が出なかったのでしょうか?
一つ一つ振り返ってみたいと思います。
カルト宗教と言えば「強制的に修行される!」「高額の物を買わされる!」「洗脳される!」というイメージが強かったまっちゃん。
そもそも「カルト」とは何でしょうか?
カルト
辞典をいくつか見てみると、
カルトとは、ラテン語で「崇拝」や「儀礼」を指すcultusから来ている。
熱狂的な崇拝、ある特定の人物に対しての狂信的崇拝のこと。
また、過激で異端的な新興宗教のこと。
マスコミで使われる場合は、時として「反社会的な宗教集団」を指す場合もある。
「カルト宗教」に共通していることをまとめると、
① カリスマ的教祖がいる
② マインドコントロールをして信者を洗脳する・薬物を利用する
③ 外部社会から隔離された場所で共同生活をする
④ 神秘的、魔術的、異端的な儀式をする
ということです。
では、一つ一つ見ていってみましょう。
① カリスマ的教祖がいる
カルト=カリスマ的教祖を神格化させ、その人を熱狂的・狂信的に信じ崇拝する宗教
摂理はどうでしょうか?
教祖である鄭明析牧師は、自分を高めることはせず聖書にある「ただひたすら主・神様」をいつも中心にして生活され、信者(弟子)たちにもそのように生きるようにと教えています。
花を摘みに山に登った時も、弟子たちに様々な花を摘みプレゼントしながら、一番良い花は「神様に」と持って帰って祭壇に捧げていらっしゃいました。
木を植える時や岩の作業をするも、口で指示だけ出して弟子たちに作業させるのではなく、誰よりも一番危険な場所に自ら入り、自らの手で岩も置き、土もならされていました。
そして、いつも神様に祈り、神様が一番気に入るようにと心を使いながら作業されていました。
弟子たちにも、「いつも主・神様を中心にしなさい」「神様を愛しなさい」と仰います。
「私(教祖)を崇拝しなさい」など一言も仰っていません。
鄭明析牧師自らが神様に仕え、いつも神様を中心に過ごされているから、その言葉がすっと心に入って、私も神様を意識して過ごせるようになりました。
神様について教えて下さった鄭明析牧師のことは、とても尊敬していますが、これだけは言えます。
摂理は三位一体の神様を崇拝しているのであって、教祖を崇拝しているのではありません。
② マインドコントロールをして信者を洗脳する・薬物を利用する
カルト=洗脳・マインドコントロール
カルト宗教と言うとよく、「信者が反発しないように自我を無くす洗脳を行なう」というイメージが強いです。
妄信的に教祖の言葉を信じるように洗脳し、反社会的思想を入れるようなことがそうです。
その手段として幻覚作用のある薬物(麻薬)を使用していたことが明らかになったカルト集団もありました。
脱退しようとした信者を強制的に閉じ込め、洗脳教育をすることもカルトの特性の一つとして挙げられていました。
摂理はどうでしょうか?
摂理で「麻薬などの薬物」はご法度です。
また、「洗脳・マインドコントロール」などもありません。
まっちゃんは頑固者だったので、いくら指導者(摂理の中で教えてくれる立場の人)に「こうしたら?」と助言を貰っても、自分が納得しなかったら絶対に「うん」と言いませんでした。
そういう時も、指導者は「も~、まっちゃんは頑固だね~!」と笑いながらも、まっちゃんがやりたいようにそっとしておいてくれました。ここで無理やり強制させられていたら、まっちゃんはきっと嫌気がさして逃げ出していたでしょう。
自由人でしたから(笑)
当時のまっちゃんは、自分が楽しいと思うところにふらっと入って行って、嫌になったらふらっと出ていくような猫のような性格でした。
礼拝も、当時所属していた大学のサークルの活動日と同じ日だったから行ったり行かなかったり。
いつも自分が行きたい方を、自分の意志で選んでいました。
それでどうこう摂理のメンバーに指摘を受けたこともありません。
ある日、サークルをこっそり抜け出して礼拝に行ってみたら「今日はどうしたの?」と逆にビックリされたくらいで(笑)
そんなまっちゃんだったから、はっきり言えます。
摂理は自由。
強制的にコントロールされない。
各自、自らの意志で選んで行なっている。
そんな場所です。
③ 外部社会から隔離された場所で共同生活をする
これ、よくニュースとかでも取り上げられますよね。
カルト宗教が共同生活をして社会と断絶した暮らしをしているとかなんたら・・・
そこで洗脳され、教祖を信じるようにさせるとかなんたらかんたら・・・
摂理は‥と言いますと、
これも自由です。
ルームシェアで住みたい人はルームシェアで。
一人暮らしが良い人は一人暮らしで。
家族と住みたい人は家族と。
そんな感じです。
まっちゃんは経済的にも楽しさ的にも共同生活が良いので、摂理メンバーとルームシェアしながら一緒に住んでいます。
もともと大学生の時、摂理に来る前から(次は友だちとシェアしたいな~)と考えていたので、自分のスタイルにも合っていると思っています。
疲れて仕事から帰ってきても、一緒にご飯作って食べたり、今日一日あったことを話したり・・・
人が好きなまっちゃんにとって、シェアはとっても楽しいです(●´ー`●)♥
ちなみに、学生も社会人もみんな社会の中に入って暮らしていますよ。
隔離などされていません。
まっちゃんも、学校の同僚と一緒にご飯も食べに行くし、遊びにも行ってました。
職場の教師仲間とスポーツも一緒にしていました。
実家にも長期休みは帰りますし、
小学校~高校の友だちとも、実家に帰れば変わらず会いますしね♪
④ 神秘的、魔術的、異端的な儀式をする
これ、何でしょうね?
神秘的体験とかって、麻薬とかで昏睡状態になった時に見えるものなのでしょうか?
イメージでは、瞑想の儀式とか?
怪しげな祭壇の上に寝転んだ人の上に血を垂らすとか?
う~ん・・・(;’∀’)
摂理では「儀式」みたいなものはありません。
普通に「礼拝」を捧げています。
お祈りして、賛美して、説教を聞いて、献金をして…。
なお、献金も少額で大丈夫ですし、「いくら」とは決められてません。
聖書にもこのように書かれています。
沢山のお金を捧げた金持ちの人と、少しだけ捧げた貧乏な人。
この二人を見てイエス様が仰ったシーンです。
イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめ(未亡人)が、レプタ二つを入れるのを見て言われた、
「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは誰よりも沢山入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」
<ルカによる福音書21章1~4節>
大金持ちたちが堂々と大金を献金する横で、身なりの貧しい未亡人がそっと2レプタを献金します。(1レプタ=約30円)
それをご覧になったイエス様は「あのやもめは誰よりも沢山いれた」と仰るのです。
つまり、「天は捧げものの金額ではなく、捧げたその人の真心をご覧になる」ということです。
このやもめ女は、「最大限を神様に捧げたい」という思いが強かったのでしょう。
それが大きかったとイエス様は仰ったのです。
摂理でも同じです。
「その人がどれだけ真実な思いで捧げるのかを神様がご覧になる」と教えて貰いました。
金額の大きさよりも、真心重視でした。
献金だけではなく、賛美する時も「上手い下手」ではなく「どれだけ心を込めて歌うのか」が重要だと。
また、何か仕事をする時も「どれだけ神様に感謝と愛を捧げて行なうのか」が重要だと。
そのように鄭明析牧師に教えて頂きました。
お祈りも、「切実さが大事だ」と教えて貰いました。
カルト宗教でいわれるように変な薬物を焚き込めた部屋でお祈りさせられて昏睡状態や錯乱状態になることはありません。
自分の部屋(家)で、教会で、職場で、神様に心を込めて各自が信仰生活をしています。
まとめ
このように、4つの観点から「摂理がカルトかどうか」を考えましたが、「摂理はカルトではない」といえるのではないでしょうか。
三位一体の神様を崇拝し、礼拝を守り、信仰生活を社会の中で行なっているのが摂理です。
詐欺や違法な取引もありませんし、薬物やマインドコントロールもありません。
今回検証してしましたが、何で「カルト」と報道されるのか不思議なくらいです。
気になるかたは、一度摂理の教会に来られて実際にご自分の目でご覧になってはいかがでしょうか?
御言葉、とっても良いですよ。
人生は「知る分、悟る分」貴重に生きるようになる。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より@www.god21.net
Kounの場合:摂理はカルト教団だと言わしめさせるものは何か?の考察。
カルトならば、偏った人似たような人たちが集まるのではないかとおもうのですが、
摂理には結構いろんな人がいます。
今日は、あるポイントをもって、紅海を分けるように2つに分けてみました。
ざっくり分けて2つ。
1つは、宗教に抵抗が無い人。
もう1つは、宗教に抵抗感がある人。
そして、私の印象からすると後者の方が多めかなとおもいます。
宗教に抵抗感を持つ理由としては、日本人の大多数は凶悪事件を起こした某宗教団体により、
宗教は悪いものというイメージを抱かざる負えないことと
日本民族は神社・お寺の参拝はしていても、それが信仰とは言い難い無宗教に近い風土があるからだと思います。
宗教嫌い、アンチ宗教(無神論者)だった人が
摂理に出会うことで、信仰を持つようになるから、洗脳されたのでは?
と心配・懸念して摂理をカルトというのだろうか・・・と個人的にはそういう納得をしつつある今日この頃です・・・
宗教嫌い・アンチ宗教だった人達は洗脳・マインドコントロールされたのでしょうか?
宗教に悪いイメージを持っていて、
まさか自分が信仰を持つとは夢にも思っていなかったという方と
先日、ランチをした際のやり取りを紹介します・・・・
わたし:「社会人になってから、摂理に出会ったということですが、
聖書・宗教等に悪いイメージがあったならば、
礼拝に初めて参加したとき、戸惑ったり違和感というか、ちょっと大変じゃなかったですか?」
メンバー:「まったくもってその通りで、礼拝前に祈っているみんなの姿にドン引きをしました笑」
そうですよね~(^_^;)
わたしも中高生のとき、礼拝始まる前の黙想の時間とか、お祈りするときとか
え?今何するの?どうしたらいいわけ?
いつ目を開けるの?
っていうか、祈るってなに?
と、とまどいましたもの。。。
わたし:「バイブルスタディはどんな感じで聴いていたんですか?」
メンバー:「今週で終わろう。もう次回聴くのは無し。そう思って聴いていました。笑」
ワオ。わたしも同じこと思っていました。
わたし:「どうして、最後までバイブルスタディを聴いて、なおかつ礼拝で続けて、今に至ったんですか?」
メンバー:「人生の問題を解きたかったんですよね・・・。ただそれにつきます。
色々、模索したんですが、答えがなかったから、まさか、宗教かよッって思いましたが。(^_^;)
知りたかったから、聴き続けました(笑)」
聴いた話を自分で考えて判断できるからこそ、
続きが気になるというか、知りたくなるんですよね・・・。
摂理で「まさか宗教するとは(信仰者になる)思いもしなかった」という人たち
人生・性格、十人十色、経歴も様々なのですが
共通点が一つあるんです。
人生かけて知りたいと思った事がある人達なのです。
ある人は、真理だったり、
ある人は永遠な愛だったり、なのですが
結局はその二つは
神様の御言葉、聖書を学ぶ時に得られるので、
摂理のバイブルスタディを学んでいく中で見つけられるというわけです。。。
学ぶことは、本人の意思がないとなせないです。
教育も同じ学校で同じ先生から教えてもらっても、成績はそれぞれのように
摂理のバイブルスタディも洗脳ではないと言い切れます。
カルト宗教から友達を救い出そうとした方の末路。
カルト宗教の摂理から友達を助け出そう。目を覚まさせようと思って
摂理に潜入したところ、
いつのまにか自分が摂理メンバーになり
そのともだちは摂理からいなくなったという、まさにミイラ取りがミイラな経緯を持ってらっしゃる昇一牧師。
高校生のときに隣の席の友達が、摂理のメンバーだったそうです。
おかしな宗教団体にやられている級友を救い出そう!!そう思ったそうです。
が、今は摂理で聖書とイエス様について詳しく教えてくれる牧師さんになりました。
昇一さんの講義おもしろいです。
メイドインヘブンなテイスト。
[arve url=”https://www.youtube.com/embed/j6Dvoyda_nw” /]
現状、日本においては、宗教=新興宗教=社会問題みたいな
連想に共感してしまうが、World of な視点で見る時の「宗教」は文化・歴史に通じていてもいるので、まったく怪しいと思わないよね~
と、摂理の大学生ハナちゃんの記事↓を読みながらを改めて、そう感じました。
カルト宗教だと思っていた団体の礼拝に出るようにまでなっていた話
ちなみに、平成生まれと昭和生まれとでは神様のイメージがちがうらしい。と小耳にはさみました。。。
平成生まれ世代はイメージが神様に対してのイメージがほとんどなく、
説明したとおりに「へー」というかんじで受け入れる傾向があるらしく
昭和生まれ世代だと「悪いことをする神様が罰与える」という感覚があり、
悪いことをしたら怒る神様みたいな、なんとなく恐いイメージを持っている人が多い傾向があるため、
神様は恐くないんだよ~という説明等が、まずはじめに必要な場合があるそうです。。。
いわゆるジェネレーションギャップ。
摂理の中でもそうならば、日本全体についてもそうなんだろうな。と思いました。
一部の方からカルト宗教とレッテルを張られてしまっている
われら摂理についても、事実を発信し続けたら
じわじわと観も変わるはずと確信と希望を抱いております。
しかし、残念ながら「新興宗教」これについては、「いいイメージはない」と断言できそう。
なぜならば私もよくないイメージをもっているからです・・・・。
そもそも新興宗教って一体どんなものなのでしょう?
定義は明確でなく、新しく興った宗教⇒新宗教という意味合い
日本においては幕末期からの宗教団体を指すようです。
摂理が新興宗教なのか?と言われたら
摂理内部・メンバーはそう思っていないな~と自分含めて周りの人達の発言等から感じ、そう思うのかを考えてみました。
摂理人が摂理は新興宗教ではないと思っている理由①
6000年の歴史を持つ聖書(1400カ国語以上に翻訳)を通して、
創造主神様の御言葉(真理)を信じて、御言葉を実践することを目的にしているので、人の思想等を信じているわけではない。
チョンミョンソク先生は常に聖書を通して教えて下さり、御言葉を行なって、具体的かつ実体的な信仰生活を教えてくれます。
家庭局のママさんが書かれているブログ記事から御言葉を実践をする様子が分かると思います。
摂理人が摂理は新興宗教ではないと思っている理由②
日本では「新興宗教」=「マインドコントロールして教祖(人間を)を崇める宗教」
みたいなイメージ・印象が存在するが
摂理は人が人を崇拝するように仕向けることもなく、人が人を操作することなど全く無いです。
その証拠に、よくない摂理あるあるとして「時間の感覚がルーズ」というのがあります。。。。
人が人を操作するくらいの軍隊的な規律がある集団ならばルーズってのはまず、ないでしょうな・・・。
宗教団体がお金の集め方が異常みたいな事を指摘される方々もネット上には多く見受けられますが
摂理は、ノルマとか定額の献金等求められることもないです。(もしそうならば低所得者の私は存在しないし、学生ムリでしょう(^_^;))
また、終末思想を植えて信者にする(世界が滅ぶという恐ろしい強迫観念を与えて救いを求めさせようとする)団体もあるようですが、
摂理ではそういうこともありません。(先日、家にそういった団体の方が訪問に来られたようで、そういう本が置かれていて超恐かった)
そういうわけで、摂理には強力なレッテルが張られているのだなあと感じることが多々あります。
レッテルとってどういう感じで生じるんだろうとふと考えた時に、自分の身の上にあるレッテルを通してわかったことがあります。
実家に住んでいる=貯金できるでしょ。楽でしょ。
というイメージを持たれやすいです。んが、しかし・・・
実際のところ、わたしは家賃(食材費・光熱費・保険等)を家長の細君(つまりお母さん)に献上かつ
炊事の部分は、8割くらいは母ですが掃除、洗濯等は自分の分は自分でしております。(この風習?は共働きだからです)
家族の分の炊事、洗濯も私が分担するの部分もあるため
時間を合わせなければならない点があり、完全なルームシェアだともっと楽だろうな。。。。かんじることもあります。
なので東京へ毎週通っている私としては、
東京で暮らすのと、ほぼトントンな生活費(山梨は時給の方が低いので東京で暮らす方が貯金もできるかも。。。将来を考えないといけないなぁ~(^_^;)と最近思っています。)
というような現実プラス
教会(聖殿)でお祈り・賛美することのすばらしさメンバーと一緒に活動をすることの面白さ等を考えると、
この生活って、楽ではないんだけれどなぁ(-_-;)という本音です。
そんな中、レッテルってやっぱり、実際を見ないで
表面的な条件で判断されるんだなと痛感しました。
そして、「摂理カルト宗教」というレッテルも
このようにこうだ。
なんだろうなと。
摂理ってカルトでしょ?と思っている方が抱いているイメージ・・・
女性が多い・韓国発祥・若者が多い・高学歴な人・・・等々のいくつかの
表面的事実から連想されているだろうなぁ・・・と。
女性が多い:世界的に見て女性の方が人口が多いので、どこの宗教団体も女性が多めです。。。
韓国発祥:摂理どうこう以前に、韓国においてクリスチャンは人口の約半分。世界的規模のキリスト教団体が韓国には有数あります。聖書で通読表アプリを検索すると9割韓国語です・・・。
若者が多い:「宗教はちょっとね・・・」という本人の意志・認識等の理由で、悲しいかな摂理から離れる人もいる現状です。
高学歴:オウム真理教で高学歴な人たちが宗教団体の幹部をして殺人の罪まで犯したことでカルト団体は高学歴な人達が関わっているという印象があるのか、摂理は高学歴な人を狙って加入促進?(いわゆる勧誘)しているイメージがあるようです。
が、摂理人の経歴は、中卒・高卒・短大卒・専門学校とさまざまかつ、
大学生のおともだちはだいたい、大学生。そんなもんです。
というわけで、
レッテルとは表面的な情報から連想したり、自分の見識で判断したりする
ところから来ているのだと言えます。
実際は、表面的な情報は実態ではなく、実際の事情と実態は表面の情報にはないと
そうお伝えしたいです。
一部の方からカルトと言われる摂理で見た奇跡。>自白編
カルトかカルトでないかそれを確認したい方向けに参考になるのか、どうかわかりませんが
わたしは放っておいたらいつか自分を殺す人でした。
わたしは犯罪を犯す可能性がある人でした。(エゴグラムが犯罪者のパターンと似ているとのことでした。。。)
わたしはいじめられたこともある人だし、意地が悪く冷たい心の持ち主でもあります。
わたしは人と比べる以前に、自分の存在価値も意義もあまり見いだせず、生きている意味も価値も
教えてもらえなければ今日にでもいなくなったほうが良い人なんじゃないかと普通におもう人です。
人と比べて辛くなるというのも確かに、若いころはあった気がしますが・・・・
比べても意味がないというか、それ以前に自分の中にある悪やどうしようもない能力の低さは自分が向き合うしかないのです。
なので、
比べて落ち込むというよりは、むしろどうしようもない自分に疲れるな~と今はよく思います。。。
しかし、自分のケツは自分で拭くしかないのです。
疲れてはいられないです。
でも、疲れるんですよね。
なぜならば生きるってことは力が必要だから。
時に、
ご飯食べるだけでは、心は元気にならないというか生きる力が湧かない事もあるんですよね。
病院に行っても良く休みなさいという事しか言われないこともあるんですよね。
周りの優しい人たちから励ましの言葉をいただく事があっても、結局自分で自分を愛する事ができなければ
前に進まないこともあるんですよね。
結局、自分の考えが問題の根本であり、
自分の中にある悪を見つけ出してなくすことが私に必要。
それが摂理に来る前に究極的にわかったことの一つであり、
今も向き合っていることです。
今日、会社で「あなたの対応は冷たい」と言われました。
自分本位なところ、相手の心情を考えて話さなかった点が原因だと思います。
どうしてそうなったのか?
それを考えた時、、、
わたしが自分の立場(すべきこと)を忘れていることもあると思いますが
温かな心。
困っている方を助けようとする心がなかったんじゃないかなと祈りながら見えてきました。
先日、さくらさんが「いじめをやめましょう。」と善なる心で呼びかけられていましたが
そもそも、お金を巻き上げるとか、暴力するとか、言葉の暴力含めて、それってイジメじゃなくて、犯罪だよね?って私はおもいます。。。(どうしてイジメというぼやけた言葉にするのか、最近疑問なのですが・・・・)
いまだに温かな心がない、わたしは、いじめをする人たちの気持ちが少し、わかります。
ここで、わたしが申し上げるイジメとは、犯罪手前の嫌がらせ的なイジメです。
犯罪の芽がイジメともいえる気がしますが、
そういうイジメをするのは、自分の心が殺伐かつジコチューな状態。
弱い立場を苦しめることで自分が優越感をかんじるようなまちがった感覚。
神様が与えて下さった良心が起動できない、もしくは死んでいる・仮死な状態。
そういう
負の感情、悪なる考えはどうしてあるのか?
どうしたら、この悪・暗闇を無くすことが出来るのか?
そもそも、どうして悪が存在する世の中を神様は作ったのか???
答えがないので、
もんもんとどす黒い考えと灰色の重い心を持ちながら
日々死ぬことを考えていた事を思い出します。(遠い目)
さて、そんな人が摂理でチョンミョンソク先生から教えてもらったんです。
切々と明確に
善とは何か?
神様の愛とは何か???
それを教えてもらえたから、
どのように、自分の中にある悪と向き合い、対決すればいいのかその方法を知ったし、
どうしようもない自分を存在させてくださっている神様の愛を
もっとちゃんと分かろうと思うようになったし
今は自分がもっとよくなる可能性があることを確かに感じて生きています。
それが摂理で見た奇跡です。
もともとインドアなタイプなので一日中家から出ないで部屋で本を読んでいるような人でした。
(もしくは、図書館、本屋とかにいる。)
人好きな人が摂理に多いかどうかわかりませんが、私はまったくもって人が苦手(自分含めて人間不信でした)。
コミュニケーション難しいしめんどくさいから、避けて通っていました。
摂理にきてから、自分と真逆の人とかかわる事や一緒に暮らすような機会があったり、
自分が今までしたことが無かった、スポーツ(サッカーをするとか)や
興味があったけれども、自分のカラー的に似合わないのではないかと自ら線を引いていたヒップホップとか
挑戦させてもらって、自分の限界というか線引きをなにげにぶっこわす事ができました。
上手くできないから、いろいろ大変なこと(葛藤・摩擦)ありましたけれど・・・・。
本を読むだけでは得られないものがあって面白かった。
新しい世界を見るって表現がしっくり。
摂理は宗教団体かもしれませんが、
人を閉じ込めたり
意志を剥奪したり、押さえつけてコントロールする場所ではないです。
(いわゆるカルト的なことしていない)
どちらかというと、学校っぽい(学校みたいに要求や干渉そこまでないですけれどね)
自分のこと嫌いだったけれど
地球に一人しかいないっていわれても、だから?何?って思っていたけれど。
自分ってものの可能性が見えるようになった時。
また、どうやっても変えられなかった自分のカッターイ考えが神様の全知全能さで状況環境通して
よりよく崩されて再創造される時。
人生の問題で解けなかった憎しみも
解けるようになったりで、こりゃ人がすることを越えている。。。。と、参りましたと天を見上げるような心の時。
自分という個が
宇宙・地球・人間全部を作った神様を感じるしかなく、貴いんだな~自分。
って、じわじわ思うようになりました。
人生一生自分をつくること。
それを具体的に教えてくれて、挑戦することも助けてくれる
そんな場所です摂理は。
私が摂理はカルトではないと思った理由。
バイブルスタディーを摂理で学んだ時、気になったことを質問をしました。
講師の方は、分からないことは分からないと隠すことなく答えて下さったんです。
摂理に来る前に私はミッション系の学校に通っていたので
聖書を読んで疑問に思ったことを牧師さんに訊いたことがありました。
その時の牧師さんは
「掛け算を知らない小学生に因数分解を教えられないでしょう。だから伝えてもわからないでしょう。」とおっしゃられ、煙に巻く返答をされて、子供心にも憤慨いなめませんでした。。。
人を教えて導く位置の方がむしろ人を迷わしていることに幻滅を覚えた経験があったので
摂理の講師の方は人格的というか、安心できるなと思いました。
摂理の講師の方から、
「私にはわからないけれども、先生はわかると思うよ。いつか質問できたらいいね。」と言われました。
チョンミョンソク先生は
神様に一つのことを何千回も訊きながら聖書を何千回も読んだ方だとその時に教えてもらいました。
正直、何千回も読むって・・・と半信半疑でした。
直接、主日礼拝でチョンミョンソク先生の説教を聴くようになって、
10年近くたったとき、疑問が確かに解かれるようになりました。
今朝の明け方の箴言
<肉>は「噛めば噛むほど」もっと味がするし、<神様の御言葉>は「完全に説明すればするほど」もっと味がする。
摂理-キリスト教福音宣教会
これを聴きながら、
神様の御言葉の味を感じられる場所はここだけだなと
回想しながら心底アーメンでした。※アーメンとは「同意する」というような意味です。
本当に、ちゃんと説明してくれるから、思い込ませるようなカルトなんかじゃないと思うしかない。
そういうことなのです。
[arve url=”https://www.youtube.com/embed/-i71OT4SATg” /]