どうして今は死にたいと思わなくなったんですか?
と質問されたことがある。

なぜだろう。。。と、言われてみて、考えてみました。

何が出来るわけでもない自分を見ている。大切に思っている。生きていて欲しいと神様が願っている。
つまり愛して下さっているんだな~と感じた瞬間が、つもりに積もったから。

だと思いました。

そうなるまでは、「こんなどうしようもない人が存在していてすみません。申し訳ない。」とか
「なんか愛しているとか言われるほどの存在とは自分のことを思えないです。ごめんなさい。」とか
「みんなは神様とラブラブ(死語?)だが、私はそうなれない気がする。。。。」(おっと疎外感。)とか。

いろいろ、考えなくてもいい事が頭によぎったり考えに湧くように生じたりして、自分の首に巻きついて絞めていました。

自分でも苦しい。
でも、この苦しさをどうしたらなくせるのか。

自分が存在していていいのか。
存在するのに、自分を苦しめる自分の考えと一緒にいるのは苦しすぎる。
つーかなにがなんだか分からない苦しさと決別したい~(;_:)
どうしようもないから、「お前なんか死んだ方がいいだろう」という考えの通り死んだらいいのかな~
とか思う気持がよぎっていたわけです。

摂理でバイブルスタディを学んで、いったんそれを通して自分の価値とか神様の愛に目が開けてくるのですが、それまで「自分なんていなくなった方がいいんじゃないか?」という考えが脳の大方を長年、占めてしまっていたので、ふたたび鎌首をもたげてくるのです。まるで雑草は抜いても焼却しないとまた根付くように。。。
チョンミョンソク先生の説教で何度も何度も神様がどれほど大切にあなたを見ているのか~という内容を幾度となく聴きました。
そして、御言葉=神様を受け入れていないだけじゃん。自分が。とある時、ようやく気づいたのでした。

考えが死んでいる事を確かに認めるところから再生が始まったんだと思います。

<考え>は「飲む水」と同じだ。きれいな水を飲むように、脳に「きれいな考え」を入れなければならない。
「悪い考え」を入れたら、「きたない水」を飲むのと同じで、すぐに「病気」にかかる。

キリスト教福音宣教会-摂理 箴言より

自分を殺したら楽になるんじゃないか?という汚い水=悪い考えが脳に入っていたのだと気づきました。

自分のことを否定する言葉・考えが出てきたのは生い立ちで受けた傷からなんですが、
結局あってもどうしようもない考えを自分が容認して育ってしまっていたのです。

自分を殺したら楽になるんじゃないか?という、根本的な解決がされない死に至る病に脳がかかってしまっていました。
世の中には、「それはよくない考えだよ」という話は存在しても、
誰が責任を取って善くないのか?についての話は存在しなくないですか?
チョンミョンソク先生は、「絶対に「神様の御言葉」を標準にして万事を見なさい。そうしてこそ「善悪が見分け」られる。」とおっしゃって、神様の視点でみて悪い事を無くすことだと教えて下さったんですが、それを、ご自身の人生を通して、責任を持って話してくれていました。
誰よりも辛かった先生ご自身の人生を通して、神様の愛を信じることがあなたにも必要なのだと、全身全霊で伝えていたから。
そして、具体的にどうすればいいのかを提示してくれたから、「一度そのように、やってみるか。」と思いました。

どのようにして回復するのか?

苦痛を受けている原因がわかって、認めるところから回復の道が見えました。

<自分>が「不義を容認」して<自分>が「苦痛」を受ける。

不義とは、神様が喜ばない事です、つまり、悲しむこと。
神様が悲しむことをしているから、自分でも自分が理解できない苦痛を受けているんだな~と納得しました。

神様がなぜ悲しむのか?私に生きていてほしいから。特に何かが出来るわけでもない私をどうして?

「愛しているから。」

その愛を分かっていなかったから、平気で自分に駄目だしをして、それどころか自分を否定して消そうとしていました。

 

<脳>に「何でも」入れてはいけない。
<考え>に「何でも」容認してはいけない。
立場と境遇を一切認めず、「悪いもの、不義なもの」は受け取るな。
そうしてこそ「自分が考え、行なったこと」で苦痛を受けない。

御言葉を聴いて行く中で、自分が何かが出来るわけでないとしても、神様は愛してくださっているんだ。
そう少しずつ知るようになりました。

しかし、その愛をまだ、どうしてもまだ神様の愛が遠くにある感じがして、
そもそも、神様の愛をどうして私は受けれないんだろう。。。と客観的に考察して見ました。

そうしたら、神様の「あなたを愛している」という言葉よりも
「私なんてだめだ」という言葉の方が私の脳に強く残っていることに気づきました。

「そりゃ、感じられないわ。愛を。」と自分につっこんじゃいました。
そのように、何が問題なのかわかるようになったので、次のステップへ進みました。

自己憐憫が腐敗して、死臭が漂う負の考えを絶対にぶった切ろう。
そして、御言葉をちゃんと脳に入れるようにしよう!と思いました。

人は「考えるとおりに」考える。
だから「悪いもの」は、はじめから考えてはいけないし、
「悪い考え」が少し浮かび始めた時、踏み潰して、なくさなければならない。

脳神経は極度に鋭利だ。
だから<考えたこと>がよくても悪くても、「その考え」が1秒もたたないうちに、一瞬のうちに入ってきてしまう。
脳は一度入力されたら、しきりに繰り返して考えるようになる。
だから「悪いもの」には、はじめから<脳の門、考え>を開けてやるな。

しきりに悪い考えを繰り返して考えていたな~と認めるしかありませんでした。
そして、絶対に悪い考えを締め出して、当たり前に、ふらっと入って来ようとするその時は、断固として抵抗しなければならないのだとわかりました。

月明洞の薬水のように「きれいな水」を飲まなければならない。
御言葉も「時代の、瑕(きず)のない御言葉」を聞いて、その御言葉を脳に入れなければならない。

きれいな水=自分を肯定的に見る神様の視点・神様の愛をもっと知る事に努めて行きました。

 

具体的なポイント

①神様に分厚い心の扉を閉じてしまっていたことを謝りました。

「どうか神様が私の心に入ってきてください。
私の考えの中にある、自分はダメだという考えを捨てたいから、捨てられるように助けて下さい」と求めてみたり、

神様の考え・思いを受け取れるように、私努力してみよう。そう思って

「世の中的な尺度だと、何のプラスも無い人なんですけれど。
神様は私のこと好きなんですよね。
神様がどうして私を好きだと思うのか、教えて下さい。」と祈ってみたりしました。

 

②何で死んだ方が良いのかなと?と思ってしまったのか、辛かったことを一つずつ、神様に話してみました。

誰にも話せなかったこと、話したくなかった事を、言葉にすることが最初はためらう気持や、むずかしさがありました。
「神様だからね、全~部を受け止めてくださるよ」と自殺を考えた経験があるお姉さんから教えてもらったので、
そうか、じゃやってみるか。と、話してみました。

①と②を繰り返しやって行く中で・・・・

「そうなんだ、あなたがそれで悲しかったんだね。苦しかったんだね。辛かったよね。
自分なんかいないほうがいい。とおもっちゃったんだね。。。
あなたを殺そうとする考えは捨てよう」

神様がそう自分に話してくれるのを感じられるようにました。

私が存在することをただ喜ばれる神様に抱きしめられるのを感じました。
誰かの神様ではなく、私の神様になりました。

しかし、そうなるまでには、「お前なんかだめだ。死んじまえ」という考えが普通に行ったり来たりするので、
私に「死んだらいいよ」って言ってくるその不義な考え(神様が悲しむ考え)と
「くそーてめえこそが消えろ」と苦闘が何度もありました。

どうやって戦ったのか?

脳から「間違った考え」をなくすためには、祈りなさい!
そうすることによって「間違った考え」を押し出し、「正しい考え」でいっぱいにしなさい。
これは汚水にきれいな水を続けて注ぐのと同じで、汚水が溢れて出て行き、
きれいな水でいっぱいになるように、脳に「正しい考え」を続けて満たすから、脳がきれいになる。

キリスト教福音宣教会-摂理 <2016年11月24日木曜日明け方の箴言>より

脳という自分の器に、きれいな水である御言葉を脳に少しずつ、でも確実に、満たすように努力しました。

そして、ありのままの自分の言葉で神様に、率直に伝え続けてみるお祈りをし続けました。

その時に、かならず主日礼拝の御言葉で返信が来ました。

切実に答えをくださいと、願い求めたら「必ず、答え」をくださいます。

その答えをもらって、行なって見て見たとき、まるで峠を越えて新しい土地を見る感覚がありました。
それを別の言葉でいうと神様に自分をゆだねる事でした。
死にたいと思わなくなった理由がそれだと思います。


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