もう拙者はここまでかという限界に至った約3年後に、摂理の御言葉聴くようになりました。

自分を変えたくて、心理学の授業を真剣に臨みすぎて意図せず学年トップになったことがありました。
自己啓発本とかよりは聖書の聖句の方がなぜか心の奥までぐっとくるので、不思議な本だぜ聖書。と思っていました。

自分の考え・精神・心がどうしたらよくなるのか?
人生どう生きたら後悔も未練もなく生きたと言える生き方できるんだろうか?
っていうか、自殺の何がいけないのだろうか?とか生きる事について考えるとともに、極の死についても考えていました。

時が来て、機会を得て聖書を学ぶようになり、神様の視点を知るようになり、Ohこれは~知らなかった新しい視点~と楽しく学ぶことに。
しかし、神様を心底信じたり、信仰を持つこととかはちょっと・・・・・・・むずかしいかも。
と思っていた時期もありました。

じゃ、どこで信じるようになったのか?

どんなにおいしい食べ物でも、ずっと食べ続けられない・・・・。

御言葉聴いても、おぉ~そういうことか!!!という喜びが今一つ感じられなくなる時が来ました。
行なうための御言葉を、聴くこと目的で聴くようになると、神様が下さる悟りという恵みが失われて無味乾燥というか、食べているのに感じられない・・・・もどかしい、侘しさをかんじました。

わびしい・・・・あの、喜びをもう一度味わいたい。。。One More!!
Please!!!!っと渇望感が生じました。

そこで、どうしたか?
本来の「目的」をちゃんと受け入れてみたのでした。

「御言葉を行なってみる」ということ。

実際そのようにしたとき、
よぉうやくと満たされました。

はい。そんな経験を何度も繰り返しながら1年ぐらいした時(はい。すみません、時間かかって)
自分の生活・心が聖句とリンクしました。

生きることが苦行のように感じるところがあったのですが、

ヨハネによる福音書8章32節
「また真理を知るであろう。そして真理は、あなた方に自由を得させるであろう」

ここにあるとおりだ!今自分になされている!!!と思うようになったのでした。

神様の御言葉、真理を、何度も何度もよぉおおく教えてくれた先生によって
心と考えが変化して、本来あるべき心と精神のバランスを取り戻して生活をするようになり、
私をより良く導いてくださる神様の存在を確信して、人生心配も不安もないのだとはっきり思えるようになったからでした。

命がけで御言葉教えてくださった先生がもっと甲斐感じるようにもっとよく生きたいと思います。

13御言葉を聞く時や集会をする時は「喜びと興奮と感動と悟り」が押し寄せてくる。
だからといって、一週間、10日間、一カ月、1年、ずっと御言葉だけを伝えるわけにもいかないし、集会だけをするわけにもいかない。また、祈る時にたくさん悟ってうれしいからといって、続けて祈ってばかりいるわけにもいかない。これは食べ物を食べても、続けて食べることができないのと同じだ。十分な量を食べたなら、それ以上は食べられないのだ。
これと同じく、<御言葉の御働き>も<感動の恵みと聖霊の御働き>も限界までやったら自動的に終わる。
信仰の中では<御言葉>を聞いて、<聖霊>を受けて、<祈りの対話>をすること以外に「異なる次元の段階」がある。すなわち! 「生活の中に入っていって、走る段階」だ。
だから、御言葉を聞いて、聖霊を受けて、祈りの対話をしたなら、その次は「生活に入っていって走る世界」に転換して、行ないながら生きなければならない。
学んだことを行ない、感動を受けたことを実践して、聖霊を受けたのだから、より一層力強く走って、天の愛に燃えて生きなければならない。
このように生きてこそ、肉も霊も続けて変化し、「次元を高める引き上げ」が起こる。

キリスト教福音宣教会2016年4月27日の明け方箴言より

 

amen!