摂理について

宗教は洗脳?摂理はマインドコントロール?。

摂理にマインドコントロールされないようにと注意喚起?のようなことをされている方がいると新聞で知ったことがある。

その記事そのものには被害の当事者はいなくて、摂理という団体によって時間を搾取され、精神的にも悪影響を与えられるから気を付けるようにと意見を述べている教授のコメントがまるであたかも事実のように掲載されていた。また、こういう記事が掲載されたら、ローカル新聞社(山梨日日新聞)が事実を確認しないで掲載したことで乗り込もうと思っているのだが、さておき。

マインドコントロール。
なんとはなしに恐ろしいイメージがある単語だが、
実際この単語を図書館でさくっと調べると宗教よりも、むしろ日常的に触れる商業世界で宣伝等を通して巧みに行われている事が分かった。世界的に見ると「宗教は洗脳・マインドコントロール」という考えが存在しているのは国教が曖昧な日本くらいだと思われる。

この記事の目的としては、
宗教とは洗脳なのか?
摂理はマインドコントロールがあるのか?
その辺どうよ?的に書いてみた。

長いけれども、よかったら、一読していただき、ご判断していただければ幸いである。

宗教とは洗脳なのか?

以前、短大生だった時、税務署(山梨県)でアルバイトをしたことがある。
出身校を訊かれたので山梨英和だと答えたところ、ある署員の方が「宗教が学校作るなんて正気の沙汰じゃない。洗脳されるんじゃないか。」と割と真剣に不安がっていた。
その頃はまだ、オウム真理教の事件から10年もたっていなかったので、宗教に対して悪いイメージや不安感などが日本全体に覆っていたようにおもう。
しかし、では宗教とはいったいどういうものなのか?

しゅうきょう【宗教】

神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。 〔「哲学字彙」(1881年)に英語 religion の訳語として載る〕

大辞林 第三版の解説より

この解説だと、宗教を精神・心理的に理解し、外的な枠としての見解で捉えられる。

宗教とは
世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう。この信念は、生き生きした実在感をもって体験として受け取られ、合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待されている。また、信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。
宗教学者:柳川啓一の論書より

こちらは、宗教団体がなぜ存在するのかその意義と意味と目的を考察している。

辞書は、より外的に述べていて、
学者は、より内的に考察している。

中高で、聖書の歴史やキリスト教について学んだり、
摂理で、実際信仰生活をするようになって、宗教にどっぷりつかっているとおもわれる私に
宗教とはなんぞ?といわれたら、
見えない世界を見る(知る)ジャンルだとわたしは答える。
単語に変換すると「霊界」と言える。

とはいっても、私はもともとは石橋叩きすぎて割っちゃうタイプなので、目に見えない話は全く信じることはできない人だった。
中高で聖書やお祈りにも触れてはいたし、神様がいるならば、ちゃんと教えてほしい。とかおもっていたがまさか信仰者になるとは思いもしてなかった。
摂理でバイブルスタディ学び始めた時に、講師のお姉さんは「この子は信仰を持つのは、ちょっとむずかしいだろうな」と思ったそうだ笑;
そんな私がいろいろ、確かめて、納得というか確認をしたうえで、目に見えない世界があるんだな~と心から認めるようになった。

そんなわけで、目に見えない世界の話を自分の生活の中で信じて、人生を生きる。
それが宗教の実体じゃないかなと思う。

仏教・イスラム教・キリスト教どんな教理でも死んだ後の世界について説いている。
死後の世界・霊界を知ってよく生きるように教えている。

生きている時から、死んだ後の世界のことを考えているってどうなの?
何か後ろ向きじゃない?って思う方もいるかもしれないが、
家を建てる時に設計をして建てるのと、
なんとなく行き当たりばったりで手に入った材料で家を建てていくのとだと、
住みやすい家を作れるか否かよりも、そもそも家が建てられるかどうか左右するのではないだろうか。
つまり、人生も、どういう意味・目的があるのかを知って生きるのと、そうでないとでは大きく違うということだ。

なんらかの宗教を学ぶと、生きている意味と理由を知るようになる。
肉体の生き方・考えがそれに基づいた生き方になり、死んだ後の世界に結びついて行く。。。
宗教って実は自分の「人生の問題」について、とことん向き合う世界なのだ。

日本において、宗教はものすごい悪いものとしてのイメージが老若男女問わず浸透しているようでありながらも、新興宗教が多い。
それは、人生の答えについて模索して、これが答えなんじゃないかと思ってみんないろいろガンバっているのではないかと思われる。

つまり、宗教は、むしろ人間の内面的な探究というか、生死の意味と人生の目的といった答えを得るための道と言えるのではないかということだ。
ある宗教で信仰生活をするのは、その人の人生・生きる意味についての答えを得た、自由意思による判断決定と言える。しかし、その宗教を使って、悪事を成す事件があるので、宗教自体が「人をおかしくさせる・間違ったものだ」という認識が生じるのだろう。

宗教=洗脳という構図は、宗教によって人生・生活が変わった人を周囲が見て、恐れを感じる時に出来てしまうのではないかと思う。
信者は、じわじわ精神を破壊され、信じることを擦り込まれていく・・・
そういう、妄想に近いイメージがあるのではないだろうか。

実際、オウム真理教のあの施設で行われていたことや、その団体の行なったことすべては宗教以前の人道的・心で感じるレベルでみても理解できない。
どうして、あのようなことになってしまうのか?心から理解出来ない。
人は理解ができないことがあると不安になる。どう受け止め対処したらいいかが分からないからだ。
それによって、理解出来ないおかしいことをする人達が出てきてしまうの宗教のせいだ。と自然にそういう構図が出来たのではないだろうか。
またある学者が言っていたが、第二次世界大戦で日本全体が狂気的に天皇を神格化して戦争に参戦をした過去があるゆえに、信じること自体に抵抗感・恐れがあるのではないかとそういう見解もある。
何かを信じること自体が間違っているのではないか。とそういう心を抱く人達がいても確かにおかしくないだろう。

しかし、人はいつか死ぬ。その事実とは絶対であり、また死ぬのに、なぜ生きるのか?なぜ命は貴いのか?人間の存在目的は人間の考えの次元では、それをはっきりと説明できない。
とくに、無宗教に近い日本では、教理がないため、死後の世界について曖昧であるように見受けられる。そればかりではなく、信じるということ自体が何か弱い人がすることだというような認識さえ日本にはあり、ある教会・教団に属すということが日本ではより特殊にみられる傾向がある。
より少数がおかしく見られる傾向があるのか、
忙しく毎日を生きることで、人生について、生きる事・死ぬ事など深く考える機会がないのかどちらかわかりかねるが、以前、動物と人間の違いは宗教があるかないか、ともいえるとある学者が言っていた。
今日死んでも同じ明日死んでも変わらない。変わらないのに、どうして生きるのか?生きているのか?それを考えるのは人間しかいないそうだ。
事実そうだろう。それにもかかわらず、自然と宗教は自分には関係ないものだと思ってしまうのは
「宗教は悪いもの」という認識があったり、宗教という得体が知れないカテゴリ(どちらかというとマイナスイメージのものという印象)として捉えられている事が原因なのだろう。

まとめると、宗教とは人として、一度は考えるであろう「人生における問い」の答えを知り、肉体が無くなった後の世界について通じているものであるということ。
そして、洗脳と言わしめるのは、生活・言動が理解しがたい状態である信仰者・宗教人を周囲がみて思う感想から来るものであるということだ。

では、摂理=マインドコントロールなのか?について

マインドコントロールってそもそも何?

百科事典マイペディアの解説
マインド・コントロール  mind control

巧みな情報操作によって,行動・思想・感情に全人的な変化を,自然にかつ強固に一定の方向に導くこと。1995年頃明るみに出たオウム真理教事件以来,話題になった。同様の操作は,〈自己開発セミナー〉と称する教育事業や軍隊,あるいは極端で大がかりな商業主義活動にも見ることができる。

オウム真理教が、映像とかを使って教えていた事から、サブリミナル効果という単語を知るようになったこと今でもすこーし覚えている。行動・思想・感情を強制的に一定の方向に導く・・・・ものすごい無理矢理感が満載。

摂理には無理矢理がない。

無理矢理、礼拝通います。
無理矢理、祈らされました。
無理矢理、御言葉聴かせられました。
無理矢理、献金を求められました。
無理矢理、~しなさいと言われて~しました。
ということ、一切なかった。

しいて、何か嫌な思いをしたなぁと思う出来事があるならば、
ある指導者から一方的にあることを言われたことだ。
なんてことはない、説明、表現の不足による誤解のようなものが生じたことなのだが、
立場的にみて導く側が私を不安がらせてどうするのかという、何とも言えない思いを抱いたことがある。
相手の表現にとらわれずに、神様が願うことは一体何なのか?何をどうすればいいのか?御言葉とお祈りで判断・対処して、乗り越えた。

指導者という位置の方でも、表現がいまいち上手くない事もあるのだ。
だからといって、神様が間違ったわけではない。
神様が言わんとしていることが何なのか汲み取る努力が求められるケースもあるということだ。

自分も相手にダメージを与えるような表現をしてきた事が過去あったから、こういう目に遭ったのではないだろうかと深く省みて、悔い改める機会にもなった。
人間たちの足りなさから神様の悲しみが生じることがあるのだなと思った。
そして、指導者がより良く神様の願うことをちゃんと行なえるようにとお祈りをした。

自分も周りも、愛と平和を成すために、考えを日々良くする過程。
悪い考えを抜いたり、壊したり、裂いて滅ぼしたりしていく過程。
助け合い。赦し愛なのだ。と学んだ。(正直心が痛いことは、全部神様に告げて、癒してもらったからこそ、そこに至ったとおもう。)

より天が使われる方として立てられた方が指導者だが、やはり完全を目指してみんなもがいているのは事実。そういうリアルな過程が摂理にはマインドコントロールがないということが現れていると思う。

そう。もがきがあるのだ。

御言葉は良い。素晴らしい。完璧。
しかし、行なうこと。たゆまない努力と工夫と研究が必要。
これは深く学ぶ分、また、自分の姿と向き合って矛盾と至らなさを見つけるほど思う。

もし、「一定の方向に」無理矢理、御言葉を覚えることや信じることで、救われるとか天国に行くとか人生成功するとかだったら、もがきはいらないだろう。

イエス様が御言葉を行なうことについてこのようにおっしゃった

マタイによる福音書/ 07章 26節

また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。

御言葉を行なうこと、その体質を作る事が大事だと痛感する聖句。
神様の考えを行なう。これが本当に奥が深いというか、実際それを成すにはけっこうな努力が必要。
だから、マインドコントロールみたいな、ある意味、擦り込みでは、変化はできない。

感覚・判断を変えてしまうのがマインドコントロールの定義としてはあるようだが、
御言葉をやみくもに丸暗記させるということは、まず摂理にはない。
また、マインドコントロールは、コントロールをする側に利益があるからするのであるが、
利益を求めて活動をしているわけではない摂理は、非常に実費的な運営。平たく言うと裕福ではない。

ある指導者の方が「もし、私たちがカルトとか、悪い団体だったら、お金を持っている老人とか狙って勧誘と言われる活動をするんじゃない?」と言っていたが、本当にそうだと思う。そのほうが絶対にお金が集まるだろう。

人生をよく生きるということは、考えを完全にして行なうこと。
それを説いている摂理では、お金についてせびられることはない。
お金を集めて何か事業をする事などを目的としていないからだ。
重要なことは御言葉をどれだけ真実に行なって行くのか。

つまり、御言葉を聴いたあと、各人が自分の中にある整理すべきものが何なのか?それに向き合う必要性がある。しかし、それは、各自の自由意思と責任だ。

キリスト教が世界で一番信じられている理由は、体験する宗教だからという話がある。

実際そうだと思う。

人はより自分に良いと思えるものを感じたら、価値を置くだろう。

今までA社の商品を気に入っていたとしても、よりコスパもよく、A社にはない利便性がB社の商品にあるならば、B社の商品を買うようになるように。
価値を分かれば、取捨選択は自分の意志と判断だ。

自分が、祈ったら何か感じるし、
御言葉に真理があるから、御言葉を、聖書を読むと、神様が下さる考え・力をもらう。
その体験から、信仰に至るのだ。

誰しも後悔がない人生を生きたいだろう。せっかく生きるならば、成功をしたいだろう。
人生をより良く生きるということは、常に、意志と判断ではないか。
意思と判断はどこにあるのか?言わずと知れた「考え」だ。

ゆえに心・考えが大事だと2千年以上前から神様が人を通しておっしゃっていた。

口語訳:箴言/ 04章 23節

油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。

新共同訳聖書:箴言/ 04章 23節
何を守るよりも自分の心を守れ。そこに命の源がある。

目に見える世界と目に見えない世界は水と油の様でありながら
実は「心・考え」でつながっている。

<考え>は「電気」と同じで、<肉>は「電線」と同じです。

<考え>は「流れる水」と同じで、<肉>は「水が流れる地面」と同じです。

<考え>は「エンジン」と同じで、<肉>は「車体」や「機械」と同じです。

<考え>は「実」と同じで、<肉>は「木」と同じです。

<考え>は「文字」と同じで、<肉>は「白紙」と同じです。

<考え>は「家の中のもの」と同じで、<肉>は「家」と同じです。

<考え>は「穀物」と同じで、<肉>は「土地」と同じです。

<考え>は「短針、長針、秒針」と同じで、<肉>は「時計の胴体」と同じです。

<考え>は「内側」と同じで、<肉>は「外側」と同じです。

このように<考え>は「核、根本、命の役割」をするので、
<考え>を間違わないようにし、いつも<自分の考え>を大事に管理しなければなりません。

キリスト教福音宣教会-摂理の御言葉 「考えが完全でなければ肉は無用のものだ」より

日常にありふれている、何気ないものを例に挙げているのでイメージしやすく
「考え」と「肉体」が対であることがわかる。

肉体が考えを行なって、行なったとおりに得る。
どんな精神・思想で生きる(行なう)か、それが自分の永遠・死んだ後の自分である霊に密接に結びついている。そう摂理ではっきりと教えてもらった。

では、その「考え」をどうやったら、「完全」にすることが出来るのか?

人間の肉体は限界がある。しかし、限界を超える方法がある。
心と考えで治めるということ。
アスリートが肉体の限界を超えて記録を出す姿を持ってそれを痛感したりもするが、
還暦を越えた両親が普通に週5でフルタイムで働いていても社交ダンスに勤しんで毎日部活のように夜練習しているのを見ても思う。

体は疲れても、心と考えが生きている・力があると出来てしまう。
自分が好きなことや強い意志で肉体の限界を超越するというか、肉体の思いをコントロールして行える。

無形な心・考え。
1日に数えきれないくらい考えは変わるという話があるが、無形ゆえの性質。
考えは、水のように流れる。
水は水圧でダイヤモンドを加工するくらいに強くもなるので、心・考えはそのように取り扱い方・管理ではいくらでも変わるということだ。

心を完全にする方法・心・考えを作る方・治める方法をわたしは摂理で学んだ。
「作る」ということは、ない状態からある状態にすることだ。
つまり、「作ろう」「作りたい」という意志が明確に必要だ。
一方向的な考えを強制的に強いられるような形では作られない。
ゆえに、マインドコントロールにならない。

どのように心を作ればいいのかイエス様はおっしゃった

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。

マタイによる福音書7章 24節~25節

御言葉を聴いて行うことで、どんな艱難が押し寄せるとしても倒れない。
そういう生き方ができるということだ。
人生に生じる苦難・艱難を乗り越える強い心・考えを作るには御言葉を行なうことだとおっしゃっている。

聖書を持って、人の構造について神様がどのように作られたのか摂理のバイブルスタディで学べるが
人には、心・考え・精神よりもう一つ高い次元、神様が下さった霊という存在がある。
霊は永遠だから、いつかなくなる肉体とは異なるため霊の思いがある。
こういったことをバイブルスタディを学び、聖書をつまびらかに読みつつ
自分の存在を客観的に神様の視点で知って、日々生活の中で考えて、行なってみた時に
新しい心と考えと治め方をじわじわ分かるようになった。
前より何かわかったかも~という時、前よりは治められているな~と実感する。

霊という存在をどういう時に感じるか?その一つ事例をあげるならば、
神様から考えの力をもらうと、疲れも憂いも吹っ飛ぶ。
日曜ぐらいはゆっくり眠ったらどうか?と思われるだろうが、日曜日に御言葉を聴いてこそ新しい力をもらえる。なんだか体が辛いな心もしんどいなと思う時も、
主日礼拝で御言葉聴くと答えをもらって、重たいもの全部が吹っ飛んで行く。

人間的には「無理」という事態があるとしても、心と考えが、より良く・より善くなるように、
霊が助けてくれる天使が助けてくれる。神様・聖霊様・御子主が総動員で助けてくれる。
マジで?と疑いたくなるだろうが、実際だからそう表すしかない。

ただし、この「考え」を作ることは、今まで生きてきた時間分、向き合う必要がある。
そして、否定的な考え・神様の働きかけを無視するとか御言葉で学んだことを思い出さないとか
そういう状態だと、神様から引き離そうとする見えない暗闇の存在が引っ張りやすくなる。
見えない神様がいらっしゃり、助けてくれる天使も存在するように、見えない闇の存在もあるのだ。
そういうことも、摂理の御言葉ではくわしく教えてくれる。

摂理がマインドコントロールではないと思う理由はそこだ。
洗脳やマインドコントロールは、個人の考えを無視して選択も与えず、意志を塗りつぶしていくような行為ではないか。摂理では御言葉で神様の法則や神様が働きかける方法や今までの神様の歴史についてをくわしく教えるが、実際それを使うのは聴いた本人がどうするかによるので、判断と選択は各々の自由意思だ。

摂理で御言葉を学ぶと、生活の中で適用させることができるから、面白い。
自分の考えをより善く直せるからだ。

しかし、その過程や期間はある程度あるとおもう。
考えの直すべき所が一部分だとしても、見える世界だけを考えていた次元から、目に見えない世界についても考える次元に変わるので、その移行期間はあるし、何より丁寧に作る必要がある。

だから、イエス様もおっしゃった家を建てる譬えにものすごく納得できる。

基礎工事をいい加減にすると崩れるしかないが、
基礎工事が頑丈かつ手抜きでない分、強くて揺れない。

御言葉のいわんとすることについて、自分の考え・生活の中に入れてみて考えて
行なってみて、本当に必要なものはなんなのか調べて確認するときに変化するから
行なわないとそれがなされない。

まだまだ、作っている途中のわたしだが、具体的に以前と比べて何が変わったかを上げてみようと思う。

私が変わったなと思うこと3つ

①人の意見に合わせて右往左往しなくなった。
誰かの顔色を窺って、取り繕うようなことがなくなかった。
何が善くて悪いのか?人間の価値判断基準におくと、その場所、その時によって変わる事があるだろう。
それがないから、楽になった。

②視野がより広くなった。
神様の考え・価値基準に判断を置くことで、私が非社会的になったか?というと
より自分と違う考えの人の話を聴こうとしたり、
より自分が苦手としていることに挑戦するようになったし、
より自分の否定的な考えを捨てて、肯定的な考えを持つようになった。

それを別の表現であらわすならば
いつも運命は「自分の考えにとどまるか」、「抜け出すか。」
その2択だと言える。

祈ってみて御言葉学んでみて、目に見えない世界に挑戦して、根本の答えを知って生きるか
答えがない考えの中で、同じことを繰り返しつつなんとなく生きるか。

変化したいか?変化しないで繰り返すか?
根本を知って生きたいか?根本を知らずに生きたいか?

最初の1年~2年ぐらいわたしはそのように問いかけていた。
なぜならば、自分がなかなか御言葉を実践することが思うようにうまくできなかったりで、いろいろ心と考えが苦しくなり摂理で信仰生活をするか否かで悩む様な心があったからだ。

この2択は究極的な分、底力が出るしかなかった。
そして、チョンミョンソク先生が「3年は頑張ってみなさい。
木を別の場所に移す時、新しい場所に根が下されるまでは3年はかかる。」
そうおしゃっていた一言が心に深く響いて、ふんばれた。

自分を作る基礎期間・過程が3年くらいあるならば、
それってマインドコントロールって言えるだろうか?

変化したい。根本を知りたい。だから、御言葉を学んでみる。祈ってみる。御言葉を行なってみる。
苦手なことをやってみる。自分の考えが悪い所を正しく認めて、直そうと努力をすること。
そういう繰り返しを、幾度となく、数えきれないくらいに天と自分で一対一で行ないながら確認してみて、周りなど気にならないくらい天だけ集中できるようになって、ようやっと何とか新しくなったかな~と思った。(しかし、まだまだなところ満載でお恥ずかしい限り)
そんなわけで、誰が何と言ってもマインドコントロールはないと言い切れる。

③考えが変化して行動と生活が変化したことで周囲からの反応が変わった。
昔私は、自分を鏡で見ることが大嫌いだったから、お化粧もしなかったし、スカートなどはかなかった。
でも御言葉学んで、信仰生活をするようになってからは神様が下さった肉体をより良くしようと手入れをするようになった。
礼拝を捧げるのに素敵な服を神様と聖霊様とお買いものするようにもなり、
よりよく整えるために、お化粧もするようになって。年相応になったと親が安心するようになった。(笑;)
初期の私を知っている家庭局の方が久々にお会いした際
「ここまで変わってhalleluiah!!!」とおっしゃっていた。(苦笑)

また、以前は人とかかわる事が苦手だったから、避けていたけれど、自分と違う個性考えの人と企画をしたりするようになった。非社会的だった私が、社交的に社会生活をするようになったので、家族は摂理が安心な団体だと思うしかない。
だから、マインドコントロールをするような団体ではないということ、わかっているので礼拝に通う事も止めないし、私が摂理の行事に両親を誘うと参加する。
興味がない行事には参加しないとはっきり断られるが、スキー合宿とかそういう趣向が合う企画にはわりと意欲的に参加している。

考えの変化は、自分の心・自分の意志。
努力しなければ、何も変わらない。それはあたりまえの法則。
周りが心配するような生活・行動をしていることが=宗教に洗脳されているとみられるのに、
より良くなったことは、当たり前すぎて伝わらないのが悔しい。

そういうわけで、この記事を書いてみた。

摂理において、マインドコントロールは皆無なのである。
あるのは、ひたすら努力と実践。超地道。
それも無理矢理ではない。
変わりたいか?よりよく生きたいか?
そういうポジティブな肯定的な明るい思考と自分の判断・選択だ。

信じたら、天国へ行けるよ。というような話ではないから、なんだ~大変なんだ~と気落ちをさせてしまったら申しわけないが、一つだけ納得してもらえることがある。

それは、楽して得られるものよりは、苦労して得るものの方が確かに価値があるということ。

これは、時を超えても、世界どの場所にいっても同じではないか?
そう、これが真理というものだから、行なうしかない。
摂理がマインドコントロールではないという理由はそういうことなのだ。

この記事を書いたブロガー

黄雲 kou★un
生まれも育ちも山梨。東京へ通いながら摂理のバイブルスタディを学び、意を決して上京。信仰生活5年の時、想定外にUターンな平信徒アラフォー。山梨英和卒。
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