高校生の時、心が弱いから、強くなりたいと思って武道(なぎなた)をしていた時があった。

武道をして思ったのは、
自分の弱さと真正面から対峙してこそ強くなるということ。

弱さを知ってこそ、どうしたら強くなれるのか?を考えるから。

練習すれば強くなるという考えがあったが、根本的な心の中にある
自分の弱さを認めた瞬間から「どうしたらよりよくなるのか?」を考えるようになった。

弱い自分をどこか認められなかったことが、一番の弱さだったのだと気付いた。
そして、その時に聖書に書かれていたことが少しだけわかった気がした。

コリント人への第二の手紙/ 11章 30節
もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。

この書簡では5回も「弱さ」という単語が出てきている。

誰よりも信仰に自負心があったし、イエス様をニセメシアだと迫害も熱心にしていたパウロ。
そのパウロが覆されてキリストに会って、真実な信仰とは何かを命を懸けて、語っている。

聖書に書かれていることは、内面的かつ根本の問題について書かれているんだと、わかって聖書に興味が出た。
でも、学校の聖書の時間ではどうしたら自分の弱さが強くなるのか?を教えてくれなかったので不完全燃焼だった。
ただ、イエス様を主として認め信じる人達に会うとみんな共通しているのは、芯のある強さ。だった。
だから、主を知ること・信じることが強さの秘訣なんだろうな~と高校生の頃の私は思った。

コリント人への第二の手紙/ 12章 09節
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

真の「強さ」それは、人間の弱さ認めた時に絶対的な「強さ」を仰ぎ見るしかないことだと
使徒パウロを通して悟らせてもらえるが、自分の人生にはちょっと結びつかず・・・だった。
だから、信仰は特殊な人達の物なんだろうな~と感じるようになった。

で、歳月ながれ摂理-キリスト教福音宣教会でチョンミョンソク先生から聖書と御子主について教えてもらうようになってから先生ご自身の人生と生活すべて通して通して教えてくださるから、弱さをすべて神様と御子にすがって、克服して勝利されたすべてをみせてもらったから。
あぁ自分の生活でもこのようにしたらいいのかとわかるようになり
信仰はある特殊な特定だけのものではない、「実体」なのだとわかった。

弱さを正しくみるならば、強さを見つけることができる。
自分を強くしてくださる方が隣にいる事を教えてくださった。
本当の強さは神様と共に生きる事だ。と分かるようになった。

私がもっと強くなるには、もっとその方をさらにもっと知ること悟ることなんだな~と
今週の主日の御言葉「直すこと」を通して回想したのであった。